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2007年12月 アーカイブ

2007年12月01日

高田馬場

高田馬場一丁目から四丁目を指すが、地域としては高田馬場駅から早稲田大学方向に通学する者やその学生街が形成されている影響、旧町域(諏訪町、戸塚町)が同じであったこと、史跡の高田馬場跡があることから、西早稲田一丁目から西早稲田三丁目までが含められ、さらに駅周辺の下落合一丁目、豊島区高田三丁目の新目白通り以南周辺までも含めることがある。

10月中旬に「大高田馬場祭り」が行われ、サンバチームが招かれ観客で賑わいをみせる。
一説に、この地が家康の六男で越後高田藩主だった松平忠輝の生母、高田殿(茶阿局)の遊覧地(景色のよい遠望を楽しむために庭園を開いた所)であったことから、高田の名をとって高田馬場としたとするが、それ以前に、この一帯が高台である地形から俗称として高田とも呼ばれていたため、その名を冠したとの説、その2つの由来が重なったためとの説もある。近接地に高田(豊島区)、上高田(中野区)の地名が見られる。
高田馬場跡は西早稲田三丁目となったため、町名と場所が一致しない状態になった。高田馬場は慣習的に「たかたのばば」と呼ばれ、付近の通称地名もこのように呼ばれていたが、駅名や住居表示による町名の浸透により「たかだのばば」が一般化してきている。

高田馬場一丁目 戸塚町二丁目、戸塚町三丁目、諏訪町 高田馬場二丁目 戸塚町二丁目、戸塚町三丁目 高田馬場三丁目 戸塚町三丁目、戸塚町四丁目、下落合二丁目、柏木五丁目 高田馬場四丁目 戸塚町三丁目、戸塚町四丁目 戸塚町一丁目(住居表示は未実施) 西早稲田一丁目 戸塚町一丁目
西早稲田二丁目 戸塚町一丁目、戸塚町二丁目、諏訪町 高田町(全部)、戸山町西早稲田三丁目 戸塚町一丁目、戸塚町二丁目
鉄道(高田馬場駅)
* 東日本旅客鉄道(JR東日本)山手線 * 東京地下鉄(東京メトロ)東西線 * 西武新宿線

バス

* 都営バス
o 学02系統
o 飯64系統
o 上69系統
o 高71系統
* ケイビーバス(関東バス) o 百01系統

道路

* 早稲田通り
* 小滝橋通り
* 明治通り
* 新目白通り
* 高田馬場通り
* 諏訪通り

河川

* 神田川

築地

大火の際に焼失した浅草の本願寺の移転のために佃島の住人によってこの土地が造成されたのだった。その後、浄土真宗の寺院や墓地が建立され、周辺は寺町のようになった。江戸幕府は軍事力増強を目的として、築地に講武所を設けて軍艦操練所を設置、勝海舟らが教授として赴任した。
後、講武所跡は明治政府に接収され、太平洋戦争後に日本海軍が解散されるまで、主に海軍用地として使用された。地(海軍卿旗を掲揚した浴恩園内の築山:旗山と呼ばれた)として水神社が祀られている。
1887年(明治20年)に広島・江田島に移転された。
海軍軍医学校

1873年(明治6年)、海軍病院付属学舎として創立。
徳川幕府が講武所内に海軍教授所として開設。

企業

築地本願寺
築地本願寺
勝鬨橋
勝鬨橋

* 東京都中央卸売市場築地市場、場外市場 * 勝鬨橋
* 国立がんセンター
* 海上保安庁 海洋情報部
* 朝日新聞 東京本社
* 日刊スポーツ新聞社 - 本社所在地
* 住友生命保険 東京本社
* 三井造船 - 本社所在地
* ニチレイ - 本社所在地
* 浜離宮パークサイドプレイス(JSR・共同テレビジョン・日通商事等の本社)

* 道路
o 晴海通り
o 新大橋通り
o 首都高速道路都心環状線

* 鉄道駅
o 築地駅 - 日比谷線
o 築地市場駅 - 都営大江戸線
o 新富町駅 - 有楽町線

1923年、関東大震災が発生し、築地一帯は焼け野原となった。
1935年には魚河岸が築地の海軍用地に移転され、場外にも市場が形成された。

永田町

永田町(ながたちょう)は、東京都千代田区南端の町名。国会議事堂を中心に内閣総理大臣官邸(首相官邸)、衆議院議長・参議院議長公邸、諸政党の本部などが立地し、隣接する霞が関とともに日本の国家中枢機能が集中する。郵便番号は、100-0014。一部のビルなどでは、特別な郵便番号が設定されている。

地名は、江戸初期に永田姓の屋敷が並んでいたので一帯が「永田馬場」と呼ばれたことに由来する。その後、江戸城に近いことからさらに大名屋敷が建ち並ぶようになり、江戸末期に暗殺された井伊直弼をはじめとする多くの大名屋敷があった(それぞれの領地は、数万石から数十万石と大きな差があった)。2003年の旧首相官邸改築工事の際には村上藩内藤家の屋敷跡が発見されている。

明治時代には陸軍省などが置かれていて、当時「永田町」といえば陸軍参謀本部を指す言葉であった。大正に入り、1923年の関東大震災を機に現在の霞ヶ関地区の区画再編が行われ、その後、都立日比谷高校(当時の府立一中)がこの地に移転してくる。

1936年に国会議事堂が完成すると一挙に政治中枢が集中し、「永田町の大物」「永田町に激震」のように、いつしか「永田町」は「政界」の代名詞になっていった。マスコミでは「東京・永田町」のように字幕を出すこともあって、登場回数は多い

* 国会議事堂 - 衆議院、参議院
* 国立国会図書館
* 議員会館
* 内閣総理大臣官邸
* 日枝神社 - 周辺は桜の名所として知られた
* 衆議院議長公邸・参議院議長公邸 - 互いに隣接している
* 自由民主党本部
* 民主党本部
* 社会民主党本部
* 内閣官房・内閣府庁舎
* 憲政記念館
* 都立日比谷高校
* 赤坂エクセルホテル東急
* プルデンシャルタワー - 1982年に火災を起こしたホテルニュージャパン跡地に建設された
* 山王パークタワー - 1936年に二・二六事件の起きた山王ホテル跡地に建設された

原宿

原宿(はらじゅく)とは、一地区。ラフォーレ原宿、国立代々木競技場などが近くに若者でにぎわっている。発信地となった。
原宿は厳密に言えば表参道の北側を指す地名で、南側は穏田(おんでん)と呼ばれるのだが、現在は原宿と呼ばれることが「原宿」の名を入れた施設も多く見られる。
源義家がこの辺りで軍勢を揃えたとも勢揃い坂と呼ばれている。行賞として、1590年に伊賀者に隠田村と共に原宿村が与えられた、という記述もある。原宿には組屋敷が置かれた。
幕臣の屋敷もあった。雨乞いをよく行っていたという。榛名山に日帰りで詣でた、という話も残されている。
1919年には明治神宮創建に表参道ができた。表参道の顔となった。
戦後は、表参道沿いには富士鳥居といった米兵向けの店が誕生した。
際には、ワシントンハイツの場所に選手村が建設され、外国文化の洗礼を受けた若者たちによって「原宿族」が出現した。ラフォーレ原宿
ラフォーレ原宿

1970年代は、ラフォーレ原宿のオープンや、創刊されたばかりのファッション雑誌「アンアン」や「non-no」により原宿が紹介され、アンノン族が街を闊歩、原宿はファッションの中心地として名声を手に入れた。
そのなかで原宿セントラルアパート(1958年完成)にはクリエーター達が事務所を文化を牽引した。
1990年代は表参道に海外有名ファッションブランドの旗艦店が続々とオープンした。2006年には表参道ヒルズがオープン。
* 1871年 - 東京府豊嶋郡原宿村(廃藩置県により) * 1878年 - 東京府南豊島郡原宿村(郡区町村編制法により) * 1889年 - 東京府南豊島郡千駄ヶ谷村大字原宿(千駄ヶ谷村に編入) * 1896年 - 東京府豊多摩郡千駄ヶ谷村大字原宿
* 1907年 - 東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町大字原宿(町制施行) * 1932年 - 東京府東京市渋谷区原宿(東京市に編入、竹下町を分離) * 1943年 - 東京都渋谷区原宿(東京都制施行) * 1965年 - 東京都渋谷区神宮前(隠田、竹下町と共に改称)
* 竹下通り
* 裏原宿
* ラフォーレ原宿
* 表参道ヒルズ
* キディランド
* 代々木公園
* 東郷神社
* 太田記念美術館
* ハナエモリビル

* 鉄道駅
o 原宿駅 - 山手線
o 明治神宮前駅 - 東京メトロ千代田線
o 表参道駅(港区北青山に所在) - 東京メトロ銀座線、半蔵門線、千代田線 * 道路
o 明治通り(東京都道305号芝新宿王子線) o 表参道(東京都道413号赤坂杉並線) o 外苑西通り(東京都道418号北品川四谷線)
* 渋谷区立中央図書館

* 渋谷区立神宮前小学校
* 渋谷区立原宿外苑中学校
* 渋谷区立千駄ヶ谷小学校

2007年12月02日

丸の内

丸の内二丁目の明治安田生命保険相互会社本社本館(明治生命館)は国の重要文化財に指定。
地盤沈下が指摘されたが、近年は丸の内ビルディングなど老朽化したビルの建て替えや、丸の内仲通りにブランドショップ・飲食店を誘致するなど再開発で盛り返している。

徳川家康が1590年に江戸城を居所とする前は、一部で日比谷入江と呼ばれていた。
外堀が作られ、外堀であったものが内堀となったため、御曲輪内(おくるわうち)と呼ばれるようになった。譜代大名の藩邸がため大名小路とも呼ばれた。南北町奉行や奉行所もおかれた。官有地となり、兵舎・練兵場などとなった。
同時期にロンバート街に倣って赤煉瓦街が建設され、一丁ロンドンといわれるようになった。ビジネス街として急速に発展した。
再開発が急速に進んでおり、2002年に建て替えられた丸の内ビルディングは開業から僅か4ヶ月足らずで入場者数が200万人を突破するなど一躍観光スポットとなった。
音楽祭は、ゴールデンウィークの一大イベントとなりつつある。
その後も2004年9月14日に日本国有鉄道本社跡地、JTB本社跡地、東京中央ビルヂングの跡地に丸の内 OAZOが、その3日後の9月17日に明治生命館を保存しつつ周囲を再開発した明治安田生命ビル(丸の内MY PLAZA)がオープンした。
2007年4月27日には新丸の内ビルディングがオープンするなど、常に注目を浴びる地域となっている。
本社・本店(三菱商事・三菱東京UFJ銀行・三菱UFJ証券・三菱UFJ信託銀行・三菱地所・三菱電機・日本郵船・ニコン・東京海上日動火災保険など) * 丸の内マイプラザ(MY PLAZA) o 明治生命館(重要文化財) o 明治安田生命本社
* 文部科学省(仮庁舎。旧三菱重工業本社)→2008年8月を目処に、みずほFGの本社が移転予定。
* みずほコーポレート銀行本店
* AIGビル
o アリコジャパン本社
o AIU保険会社東京本店
* 丸の内ビルディング
o インテリジェンス本社
* 新丸の内ビルディング
* 丸の内オアゾ
o 日本生命丸の内ビル(日本生命保険東京本部、日立製作所本社) o 丸の内北口ビル(野村総合研究所本社) o オアゾ ショップ&レストラン(丸善丸の内本店) o 丸の内ホテル
* 東京中央郵便局
* 東京国際フォーラム
* 東京會舘
* 東京商工会議所
* 帝国劇場
* 出光美術館
* 日本工業倶楽部会館
* パレスホテル
* TOKIA(東京ビル) * 豊田通商東京本社(豊田通商丸の内ビル) * パシフィックセンチュリープレイス丸の内
o フォーシーズンズホテル丸の内東京

2007年12月04日

目黒

目黒(めぐろ)は、東京都目黒区の一地区。目黒一丁目から四丁目まで存在する。
守護のために安置された江戸五色不動の一つ、目黒不動(泰叡山瀧泉寺、目黒区下目黒)は創建と伝える古刹である。
五色不動の中で著名であり、21世紀においても信仰を集めている。当時は、江戸町奉行が管轄する町屋の南西の端に位置していた。
町奉行の支配地域である黒線(墨引)の内側には入っていた。江戸の領域外となるはずだったが、目黒不動尊のために唯一例外として御府内とされた。江戸末期に至るまで武家地としては町人町としてもほとんど機能して寺町として栄えていた名産地であったということからも、状況がしのばれる。
中目黒や下目黒とするわけにもいかず、結局は目黒駅に近いことから目黒と名づけられた。目黒区役所は上目黒にある。
駅前の商店街で毎年9月に行われる目黒のさんま祭りは初秋の風物詩となっている。

【公共機間】
目黒区役所 目黒区上目黒2-19-15 03-3715-1111
北部地区サービス事務所 目黒区大橋1-6-2 03-3496-5208
目黒警察署 目黒区中目黒2-7-13 03-3710-0110
目黒消防署(仮庁舎) 目黒区目黒本庁2-25-13 03-3710-0119
目黒郵便局 目黒区目黒本町1-15-16 03-3792-7114
東山一郵便局 目黒区東山1-1-1 03-3719-9893
水道局・目黒営業所 目黒区中町2-43-18 03-5773-6126
東京ガス・目黒支社 目黒区目黒3-1-3 03-5722-3111
東京電力・品川支社 品川区西五反田5-3-1 03-3493-9221
目黒区立ひがしやま幼稚園 目黒区東山3-24-2 03-3791-4615
目黒区立菅刈小学校 目黒区青葉台3-3-26 03-3461-2569
目黒区立第一中学校 目黒区大橋2-11-1 03-3446-6158
目黒区民センター図書館 目黒区目黒2-4-36 03-3711-1138

八重洲

八重洲は、東京駅の東側に位置し、東京駅を挟んで反対側(西側)に位置するのが丸の内である。八重洲には、本社を置いたり八重洲の名を冠した企業が多く存在する。
北側の永楽町と江戸城の外壕の内側を地理的概念として存在した。
明治の頃まで京橋方面から丸の内に入るには1884年(明治17年)に呉服橋と鍛冶橋の間に丸の内の「八重洲」に通じる八重洲橋が架けられた。
その後東京駅拡張工事とともに濠は埋めたてられ、八重洲橋も姿を消した。八重洲口の設置によって八重洲口前を「八重洲」とする地理的な感覚が生まれることになった。
これによって名実共に東京駅の西は丸の内、東が八重洲になった。
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)6月に米軍の空襲を受けて東京駅八重洲口が焼失した。
終戦直後の1949年(昭和24年)に失火により八重洲口が焼失した。焼失によって八重洲口の再開発が促され、1954年(昭和29年)に八重洲口に鉄道会館ビルが建設され八重洲のランドマークと大丸東京店が開業した。
八重洲口は、隣接する丸の内に比べ老朽化したビルが目立ち、再開発は進んでかったが、現在「東京ステーションルネッサンス」の一環として再開発事業が進められている。
2007年11月には鉄道会館ビルの南北に超高層ツインタワービルグラントウキョウ(住所は「丸の内」)が大丸の移転とともに竣工した。鉄道会館ビルは解体され、2013年春ごろには、跡地にペデストリアンデッキ「グランルーフ」と駅前広場が整備される予定である。鉄道会館ビルの解体により、東京湾側から丸の内側への海風の通り抜けが改善され、ヒートアイランド現象が緩和することが期待されている。同町周辺の管轄にあたる。

2007年12月15日

中目黒

中目黒(なかめぐろ)は、東京都目黒区の一地区。中目黒一丁目から五丁目まで存在する。

また、東急東横線・地下鉄日比谷線の中目黒駅は上目黒にあるため、その周辺の中目黒、上目黒、青葉台(一部)、東山(一部)の一帯が一般的に中目黒地域として認識されることが多い。

町名としての中目黒は、東急東横線の東側を通る駒沢通りより、更に東側の一帯である。町の中央を山手通り・目黒川が通っている。

目黒区役所は上目黒にあり、目黒区の行政の中心地域となっている。

駅前は再開発が進行中で、上目黒二丁目地区に中目黒GT(中目黒ゲートタウン)が2002年4月にオープンした。中目黒GTはタワー棟(120m・地上25階建)、ハイツ棟(地上15階建)、テラス棟(地上6階建)の3棟で構成されている。また、同じく中目黒駅前の上目黒一丁目地区も再開発が進んでおり、2009年には地上45階建のビルが完成する予定である。

駅の高架下や駅周辺は飲食店・パチンコ店などが多く、夜は多くの客で賑わう。山手通り沿いは、マンション・中堅企業のオフィスが混在するほか、近年は飲食店の進出も多い。有名店や人気店もあり、周辺地区に芸能事務所が多いため、芸能人の姿もよく目撃される。 山手通りから離れると、比較的静かな住宅街である。

住宅は、諏訪山を中心とする高級住宅地(古くはフランキー堺をはじめ芸能人ミュージシャンなど)が台地上に、その麓のもともと水田、のちに中小工場地帯であったところに、いわゆる中流サラリーマンや一人暮らしのOLが住むようなマンションが多い。また、もともと軍用地であった東山一帯は官舎、団地が多い。賃貸住宅の家賃は、区内の他地区に比べ若干高いといわれる。これは後述する交通の便の良さが一因と考えられている。

山手通りに沿って目黒川が流れている。川沿い(特に中目黒から池尻大橋駅にかけて)には桜並木が整備されており、桜の季節には多くの人で賑わう。近年、川沿いにはカフェ・ファッション・雑貨などの店が増加している。店は比較的小規模ながら、オーナーや店長が若く野心的であり、個性的な店が多かったが、代官山からの回遊性のために、近年はプチ代官山化しつつある。店舗となる物件の少なさ故、家賃が高騰し、徐々に体力のある企業による出店が増えている。

大地主として、朝倉家(ヒルサイドテラス)や祐天寺の存在も忘れてはならない。

駅前では蛇崩川が目黒川とほぼ直角に合流する。蛇崩川は暗渠になっており川は見えない。合流地点は広場となっている。

もともと、竹の子の一大産地であった碑文谷地区とともに都市近郊農村であったが、代官山(青葉台)を流れていた三田用水や目黒川での水車による精米製粉業、染色業、その後、三田用水を工業用水とする硝煙製造、ビール製造(のちのエビスビール)などをてはじめに中小工業地帯となった。その後、現東急電鉄による東横線の住宅地としてのブランド戦略が功を奏し、人気の高い住宅地として開発され現在に至る。

ダイエーの東京出店1号店は中目黒である。(現在の駒沢通りと山手通りの交差点)

中目黒を通る鉄道は東急東横線および地下鉄日比谷線である。東横線経由では渋谷および横浜方面、日比谷線経由では六本木・霞ヶ関・銀座方面へ、短時間かつ乗り換えなしで行くことができ、極めて交通の便が良い。

道路は山手通り(環状六号線)と駒沢通りが交差する地点にあり、自動車での移動の便も良い。また将来は山手通りの地下を首都高速道路中央環状線が通る予定である(ただし、中目黒に出入口を設置する計画はない)。

学芸大学

学芸大学駅(がくげいだいがくえき)は、東京都目黒区鷹番三丁目にある、東京急行電鉄東横線の駅である。

駅名の由来となった東京学芸大学は1964年に東京都小金井市へ移転している。ただし、東京学芸大学附属高等学校は当駅を最寄り駅として現存している。

* 学芸大学東急ストア…駅構内
* 郵便貯金ATM…駅構内
* 碑文谷公園…徒歩約7分
* 東京学芸大学附属高等学校…徒歩約15分
* 放送大学東京学習センター…学芸大学附属高校に隣接
* 東京地方裁判所民事執行センター…徒歩約13分
* 目黒郵便局…徒歩約15分
* 東京法務局目黒出張所…目黒郵便局に隣接
* ダイエー碑文谷店…徒歩約10分
* 駐日カザフスタン共和国大使館
* 目黒星美学園小学校徒歩15分

開業時の駅名「碑文谷」(ひもんや)は現在の目黒区南部一帯の広域名称。荏原郡碑文谷村が1888年衾村(ふすまむら。現在の目黒区環七通り以南)と合併して碑衾村(ひぶすまむら。1927年に町制を施行して碑衾町)となった際に大字となっていた。駅は碑衾村大字碑文谷字鷹番に設置されたので、大字を駅名として採用した。なお、字「鷹番」は現在の駅所在地名となっている。

「碑文谷」の由来には諸説あるが、一説には鎌倉街道端にあった碑文を刻んだ石に因むとされている。「鷹番」は江戸幕府が設置した目黒鷹場の鷹番屋敷が置かれていたことに因んでいる。

周辺の目黒区側には五本木(テレビ朝日「欽ちゃんのどこまでやるの!?」にも登場)や、三谷(さんや)、唐が崎(からがさき。三谷と共にいずれも正式な町名ではなくなっている)、そして世田谷区側には、後述する東京学芸大学の所在地だった下馬や、それに隣接する野沢がある。

1936年、東京府青山師範学校が近隣の世田谷区下馬町に移転したので、その最寄り駅として「青山師範駅」に改称。以降、「第一師範駅」から「学芸大学駅」へとこの学校の名称と共に駅名も変更した。

東京学芸大学移転時、東急目黒線・東急多摩川線などの路線名変更時、みなとみらい線への直通運転開始時などの節目ごとに駅名を変更するかどうか議論されたが、地域住民の賛同が得られず現在に至っている。

付属高校は残っているものの、大学が移転してから40年以上というかなりの年月が経っている。しかし国立大学の2次試験当日、東京学芸大学受験生が間違えてこの駅に下車することがいまだにあると、一部のマスメディアで取り上げられることがある。

また、百貨店のロゴタイプを模倣したとおぼしき地元企業が散見される。

多摩川

* 各線の1日平均乗降人員は以下の通りである。
o 東横線 - 12,243人(2006年度、東横線内最下位)
o 目黒線 - 2,292人(2006年度、目黒線内最下位)
o 東急多摩川線 - 2,561人(2006年度、東急多摩川線内最下位)

東横線、目黒線の急行停車駅で、東京急行電鉄の3路線が集結する重要な駅にもかかわらず、3路線とも乗降人員の一番少ない駅である。これは、主たる利用形態が各路線相互間の乗り換えであり、改札を通らないことから乗降人員に数えられていないためである。実際には当駅乗降人員よりも遥かに多い乗り換え利用者がいる。

* 多摩川台公園
* 田園調布せせらぎ公園(多摩川園遊園地/多摩川園ラケットクラブ跡地)
* 東急スイミングスクールたまがわ
* 浅間神社
* 旧巨人軍多摩川グラウンド
* 亀甲山古墳
* 丸子橋
* 東京都道2号東京丸子横浜線(中原街道)

2007年11月3日~11日に行われた多摩川アートラインプロジェクトでは、蒲田駅と共に本部が設置された。また、アートが施された駅のうち最も多くのアートが施された。

* 逢坂卓郎「Rainbow Steps - 虹の階段」
* アトリエ・ワン + 山崎徹也「インフォトンネル」
* 内田繁「山居」
* 枯山水サラウンディング「八水響」
* 渡辺元佳「多摩川“猿” たまがわえん」

* 多摩川沿いには、他にも「多摩川」を駅名に付けた駅(小田急小田原線の和泉多摩川駅、京王相模原線の京王多摩川駅)がある。共に、その路線において東京都側の多摩川に最も近い駅のひとつである。他に近い駅としては東急田園都市線、東急大井町線の二子玉川駅がある。
* 目蒲線分離の見返りとはいえ、急行が当駅に停車したことにより菊名駅以北で実質的に「隔駅停車」(当駅~自由が丘駅は3駅連続停車)となった。東急多摩川線との連絡駅であるが、そのような事情もあり、当駅は特急通過駅となった。
* 目黒線経由東横線直通の臨時列車「みなとみらい号」の停車駅でもある。2006年8月運転分までは目黒線ホームに停車したが、同年12月運転分から目黒線から東横線への転線が田園調布駅に変更されたため、東横線ホームに停車する。
* 当駅での遺失物は目黒駅に収集される。

武蔵小杉

武蔵小杉(むさしこすぎ)は神奈川県川崎市中原区の武蔵小杉駅を中心とした地域の通称である。

正式な町名としては小杉町を中心としてその周辺の小杉陣屋町および小杉御殿町などを含める。東急東横線では、ちょうど渋谷と横浜の中央に位置する。

中原区の行政及び商業の中心地区である。

JRと東急が十字に交差しており、十字に4分割されるエリアごとで違った趣をもっていることが特徴的。

北西エリアから南西エリアにかけては、二ヶ領用水が流れているため、古くからの住宅地である。特に南西エリアは法政通り商店街などを抱え庶民的な雰囲気をもっており、かつ、飲食店も充実しており、現在のところは武蔵小杉で商業が最も盛ん。ただし、このエリアは風俗店やパチンコ店舗なども混在しており、工場地帯に隣接する街としての一面を持っているとも言える。また、北西エリアには中原区役所が近いなどオフィス街の面を有する。

また、駅北側の東横線沿いは古くは繁華街であった新丸子駅周辺から連続する商店がある。

これに対し、駅南東側は平成に入るまで大規模な工場地帯であった。しかし、南側を中心に再開発事業が進行しており、この事業に合わせて他北の2エリアもそれぞれで施設の移転や取り壊しなどが計画もしくは実行されており、今後街の様相は大きく様変わりしていくと考えられている。再開発については後述。

再開発やJR横須賀線の駅新設計画によって地価が近年大きく値上がりしており、首都圏でも注目度の高いエリアとなっている。

愛称的呼称として地元住民を中心に「コスギ」と呼ばれる。一方、川崎市が再開発にあたり「ムサコ」という名称を推奨したが、反発が大きく根付いていない[要出典]。なお「ムサコ」は武蔵小金井の愛称としても使われている。

北側地区
南武線北側の武蔵小杉タワープレイス等があるエリア。再開発の事業主体は新日石不動産、三井不動産レジデンシャル他。

* ホテル・ザ・エルシィ跡地 - 2007年9月末で営業を終了したホテル・ザ・エルシィの跡地には隣接する2棟のビルと合わせて大型商業施設の建設が検討されている。
* 新日本石油社宅跡地 - 新日本石油社宅が2009年3月末で廃止、新日石不動産、三井不動産レジデンシャルが共同で何らかの施設を建設する。
* ペデストリアンデッキ - JR武蔵小杉駅北口に設置。
* 街区公園
* 日本医大武蔵小杉病院 - 建替えが検討されている。
* 大西学園 - 建替えが検討されている。

JR横須賀線(湘南新宿ライン含む、いわゆる品鶴線)に武蔵小杉駅が2009年度末に開設され、同時に南武線との乗換連絡通路も新設される予定。また、東横線(目黒線)は東京地下鉄副都心線や西武池袋線(西武有楽町線)、東京地下鉄有楽町線、東武東上線、相鉄本線(相鉄いずみ野線)との直通運転が予定されている上、川崎縦貫高速鉄道(川崎市営地下鉄)の乗り入れ計画もあり、鉄道交通網が急速に整備される予定である。

道路整備も並行して行われる予定である。現在の道路事情は決していいわけではないので、地元住民や利用者からの期待が寄せられている。

日吉

日吉(ひよし)は、神奈川県横浜市港北区の地名。住居表示上の「日吉」以外に、日吉本町・箕輪町・下田町も一般に「日吉」と呼ばれる。また、旧日吉村が矢上川をはさんだ現在の川崎市側にも広がっていたことから、川崎市ではその地域も日吉地区と呼んでいる。

最寄駅は、東急東横線の日吉駅。戦前から戦後にかけて、東急が住宅街として開発し、1933年(昭和8年)に慶應義塾の進出が決定した。

22年)市町村制施行に伴う町村合併で、神奈川県橘樹郡のうち、駒林村・駒ケ橋村・箕輪村・矢上村・南加瀬村・小倉村・鹿島田村が合併して、日吉村が成立。大字矢上字下町の矢上橋西詰に村役場を設置し、村内に七大字を置いた。母体各村は箕輪村を除き、江戸時代の東海道川崎宿の助郷村の関係であった。

1925年(大正14年)橘樹郡住吉村の大字北加瀬を編入。その後、1928年(昭和3年)川崎市より、次いで同年横浜市よりそれぞれ合併の勧誘を受けるが、日吉村では全村合併を前提に話を進めていたため、なかなか進展しなかった。

日吉村は矢上川を挟んで大きく東部と西部に分かれており、東部四大字(北加瀬・南加瀬・小倉・鹿島田)は二ヶ領用水を通じた稲作を主体としていたため、川崎市域との結び付きが強かったのに対し、西部四大字(駒林・駒ケ橋・箕輪・矢上)は桃などの果物生産出荷を通じて横浜市域との結び付きが強く、1926年(大正15年)の東急東横線開通後はその傾向が一層強くなっていた。

1933年(昭和8年)に東京横浜電鉄(現在の東京急行電鉄)が慶應義塾予科を誘致した際、横浜市より水道を引いたことで、合併問題は深刻化する。八大字で住民投票が行われるが、西部四大字と東部の南加瀬が横浜市合併という結果となったため、話はこじれた。一時は村議会一致で全村横浜市合併を決議したが、反対派による実力行使騒動があり事態は紛糾。村議会はこの決議を白紙撤回した。

結局神奈川県知事の裁定により、1937年分村合併が実施される。矢上川以西は横浜市神奈川区に編入され、日吉町・日吉本町・下田町・箕輪町の四町が置かれた。矢上川以東は川崎市に編入され、川崎市は五大字(矢上・北加瀬・南加瀬・小倉・鹿島田)を継承した。警察は神奈川警察署(横浜市側)と川崎警察署(川崎市側)の所管に分けられた(1954年(昭和29年)から神奈川県警になり、警察署はその後いずれも分署)が、郵便は中原郵便局のままであった。1960年(昭和35年)横浜市側は港北郵便局(郵便番号が導入された1968年(昭和43年)から〒222、のち綱島郵便局完成で〒223)に移管されたが、電話はその前に電電公社に分社されたためそのままにされた。このため、横浜市側の電話も川崎電話に編入され「044」となり、1990年(平成2年)9月30日までこの状態が続いた。(準市外局扱い。同じ横浜市内へも「045」をダイヤルする必要があり、また川崎市域へダイヤルする際も「044」をダイヤルしないと通じなかった。)

分割合併後の日吉は主として横浜市側のことを指すが、これは地名(日吉町・日吉本町)や日吉駅が横浜市にあるためである。川崎市側には日吉小学校・日吉中学校があり、幸区内の行政単位として「日吉地区」も存在している。

昭和30年代までは近郊農業地域であったが、昭和40年代以降は急速に都市化が進展した。東横線日吉駅を中心に住宅地化した横浜市側に対し、地域の中央に貨物の新鶴見操車場を持つ川崎市側は整備が遅れていたが、横須賀線新川崎駅の開業で一転して立地条件が良くなり、整備が進んだ。ただし、操車場跡地の大部分は未だに更地となっており、現状は地域が二分(北加瀬・南加瀬・小倉と鹿島田・東小倉)されたままである。

日吉村を合併した際、矢上・駒林・駒ケ橋・箕輪・南加瀬の五大字を廃して、日吉町(大字矢上及び南加瀬)・日吉本町(大字駒林)・下田町(大字駒ケ橋)・箕輪町(大字箕輪)の四町を置いたが、1977年から1989年にかけて全て住居表示が実施され、四町の代わりに日吉一~七丁目・日吉本町一~六丁目・下田町一~六丁目・箕輪町一~三丁目の計二十二町が設置された。

* 日吉一丁目 日吉町字谷戸(俗に「常盤台」)の全域及び字耕地の一部
* 日吉二丁目 日吉町字上ノ町(俗に「台」)・耕地・仲谷・一本松・根搦の各一部
* 日吉三丁目 日吉町字仲ノ町の全域及び上ノ町・仲ノ谷・大門・下ノ町・三軒家の各一部
* 日吉四丁目 日吉町字中ノ原・上ノ原の全域及び仲ノ谷・一本松・大門・下ノ町・宮前・宮ノ台・欠山の各一部
* 日吉五丁目 日吉町字三軒家・宮前・宮ノ台・欠山耕地(俗に「宮前西町」)・欠山・越路(南加瀬)の各一部
* 日吉六丁目 日吉町字袋河岸(俗に「袋」)・窪新田・榎戸・新田(南加瀬)・新川向(元鶴見区駒岡町)の各一部
* 日吉七丁目 日吉町字袋河岸・窪新田・欠山耕地・欠山の各一部
* 日吉本町一丁目 日吉本町字北原・東原・清水の全域
* 日吉本町二丁目 日吉本町字中原・堂中の全域及び字東根・中村前・鯛ケ崎の各一部
* 日吉本町三丁目 日吉本町字殿袋の全域及び字内田・中橋・前耕地・鯛ケ崎の各一部
* 日吉本町四丁目 日吉本町字船橋・沖野・居家操の全域及び内田・中橋・前耕地の各一部
* 日吉本町五丁目 日吉本町字池ノ下・檜入の全域及び字鯛ケ崎・大谷戸の各一部
* 日吉本町六丁目 日吉本町字西根・西原の全域及び字中村前・東根・大谷戸の各一部
* 下田町一丁目 下田町字大下・中町・一本松の各一部
* 下田町二丁目 下田町字大下・北原・中町の各一部
* 下田町三丁目 下田町字中駒の全域及び字北原・杉並・西ノ前の各一部
* 下田町四丁目 下田町字一本松・杉並・西ノ前・南原の各一部
* 下田町五丁目 下田町字南原・カサの各一部
* 下田町六丁目 下田町字屋ケ増(八ケ舛とも。俗に「下田上町」)の全域及び字カサの一部
* 箕輪町一丁目 箕輪町字諏訪下((梅ケ枝)谷戸・上形・向方)の一部
* 箕輪町二丁目 箕輪町字樋下の全域及び舟下の一部
* 箕輪町三丁目 箕輪町字諏訪下(根方・(夕日山)洞谷)・舟下(竹ノ花)の各一部

大倉山

大倉山駅(おおくらやまえき)は、神奈川県横浜市港北区にある東京急行電鉄東横線の駅である。


スーパーマーケット

* マルエツ
* 東急生鮮プラザ(東横線高架下)

公園

* 大倉山公園(梅林)

公共施設

* 港北区役所(大豆戸交差点付近)
* 港北消防署(大豆戸交差点付近)
* 港北公会堂(大豆戸交差点付近)
* 大倉山郵便局

銀行

* 横浜銀行
* 三菱東京UFJ銀行
* 川崎信用金庫(綱島街道・大倉山交差点付近)
* ★横浜信用金庫

コンビニ

* セブン-イレブン(大倉山交差点付近)
* ファミリーマート

ファミリーレストラン

* バーミヤン
* ロイヤルホスト
* ガスト

レストラン

* ビストロファミーユ
* ふなば亭
* カヴァヌーラ
* Luz

ファーストフード

* 松屋
* ケンタッキーフライドチキン
* ミスタードーナツ
* モスバーガー
* マクドナルド

コーヒー・喫茶店

* スターバックスコーヒー
* ドトールコーヒー

ラーメン・中華料理

* 吉兆
* 七志
* 摩天楼

和食・寿司

* すし三崎丸
* 樹庵

ケーキ屋さん

* すぅぃーとTAMURA
* クール・オン・フルール
* マ・ファボリット
* ピオン

弁当・惣菜

* オリジン弁当
* さぼてん

「大倉山」の由来は、近隣の丘の上にある、実業家である大倉邦彦が作った「大倉精神文化研究所」(現・大倉山記念館)より採ったもの。2007年現在は通称であって、正式な町名ではない。

駅所在地の地名は太尾町(ふとおちょう)であり、駅開業時も「太尾」駅と称していた。改称の理由は当時東京横浜電鉄が経営していた梅園(現在の市営大倉山公園)の観光開発と大倉山精神文化研究所の建設に伴うものである。なお、太尾町は住居表示が実施される予定であり、これまでの「太尾町」は7つに分割され、新設町名「大倉山一丁目」~「大倉山七丁目」が割り当てられることが決まっている。

2007年12月17日

妙蓮寺

妙蓮寺駅(みょうれんじえき)は、神奈川県横浜市港北区菊名一丁目にある東京急行電鉄東横線の駅である。

* 対向式ホーム2面2線の地上駅である。改札口はそれぞれのホームの白楽駅方に2つあるが、地下通路でも結ばれているので反対の改札口から入ってもそれぞれのホームに行き来できる。以前は、改札口が上りホームにしかなく、下りホームへ行くのには地下通路を通らなければならなかったが、下りホームに改札口が新設された為、地下通路はあまり使われなくなっている。
* トイレは上り(2番線)ホームにある。男女各トイレに多機能トイレを併設している。
* 上りホームの渋谷方は東横線の撮影地として人気がある。

* 妙蓮寺
* 妙蓮寺駅前商店街(妙蓮寺ニコニコ会)
* 横浜銀行
* りそな銀行
* 横浜妙蓮寺郵便局
* 新横浜ソーワクリニック 横浜総合健診センター(元 新横浜病院)
* 菊名池公園
* 菊名池公園プール
* 横浜市立港北小学校
* 武相中学校・高等学校

駅前の道路(旧綱島街道)は一方通行の狭い道なので、バスターミナルや駅前広場は無く、バスは駅前まで来ない。但し、1972年までは東急バスの日吉駅(晩年は綱島駅)行きのバスが妙蓮寺駅前に乗り入れていたことがある。また、NPO法人によるコミュニティバスの計画がある。

最寄のバス停は、横浜市営バスは水道道沿いに、臨港バスは(旧綱島街道)沿いにある。

駅のすぐ脇に踏切がある。

周辺は閑静な住宅街。

妙蓮寺が東横線敷設時に敷地提供をする代わりに妙蓮寺前駅を作らせた。

妙蓮寺駅の駅名標や路線図に書かれている「蓮」は2点しんにょうのだが、5050系やY500系の車内モニターでは「蓮」は1点しんにょうで表示される。標準搭載のフォントが1点しんにょうであるのをそのまま使っていると推測される。

東急で「蓮」を使用しているもう1つの駅である東急池上線蓮沼駅では、駅名標の「蓮」は1点しんにょうのものもあるなど、同じ会社なのになぜか統一されていない。


白楽

白楽駅(はくらくえき)は、神奈川県横浜市神奈川区白楽にある東京急行電鉄東横線の駅である。

相対式ホーム2面2線の地上駅で、ホームは湾曲している。橋上駅舎を有しており、両ホームは1階にあり、2階改札口へと上がる階段1つずつとエレベーター1基ずつが設置されている。なお渋谷駅方面のホームは六角橋方面へ出られる改札口(画像参照)が設置されているが、これは近年設置されたものである。

トイレは下りホーム(1番線)にある(多機能トイレ併設)。

横浜市営バス

* 六角橋(徒歩5分。横浜上麻生道路上)
* 東側乗り場
o 36,38,39,82系統 東神奈川駅西口行・横浜駅西口行
* 西側乗り場
o 神奈川大学入口、神大寺方面
+ 36系統 菅田町行・緑車庫行
+ 82系統 八反橋行・神大寺入口行
o 六角橋北町方面
+ 38系統 鶴見駅西口行
+ 39系統 緑車庫行・中山駅行
+ 深夜バス 十日市場駅前(小机駅前・東本郷町・中山駅前経由)
* 白楽
o 31系統 大口駅前行
o 31系統 横浜駅西口行

駅周辺は神奈川宿の伯楽(ばくろう。馬喰、博労とも書く。馬を治療したり仲買したりする人)が多く住んでいたため、伯楽が転じて白楽(はくらく)となったもの。馬喰に因む地名は全国各地に存在する。白楽天とは無関係。

東白楽

相対式ホーム2面2線の高架駅で、神奈川県道横浜上麻生線を斜めに跨いでいる。

両ホームにエレベーターが設置されており、高架下には、駐輪場とトイレが設けられている。

六角橋商店街の南端に位置する。横浜上麻生道路を南に進むとJR東神奈川駅へ、北へ進むと六角橋に出る。

* 孝道教団
* 横浜市立二谷小学校
* 神奈川県立神奈川総合高等学校
* 神奈川県立神奈川工業高等学校
* 横浜西神奈川郵便局
* 神奈川簡易裁判所
* 神奈川区検察庁
* 神奈川公会堂
* 神奈川大学横浜キャンパス(徒歩14分)(市営バス36・82系統で5分)
* 横浜逓信病院
* JR京浜東北線・横浜線東神奈川駅(徒歩12分)
* 京急本線仲木戸駅(徒歩15分)

横浜市営バス 東白楽

* 1(横浜上麻生道路東神奈川方面)
o 36, 39, 82, 38 東神奈川駅西口・横浜駅西口(東神奈川駅西口経由)
* 2(横浜上麻生道路六角橋方面・改札を出て県道横浜上麻生線を渡る)
o 38 鶴見駅西口(港北小学校前経由)
o 39 緑車庫前・中山駅前(小机駅前経由)
o 深夜 十日市場駅前(小机駅前・中山駅前経由)
o 36 菅田町・西菅田団地・緑車庫前(神大寺経由)
o 82 八反橋・神大寺入口(神大寺経由)
* 3(駅東側)
o 31 大口駅前
o 31 横浜駅西口(東神奈川駅西口経由)

* 1926年(大正15年)2月14日 開業。
* 2004年(平成16年)1月31日 東白楽付近で東横線の反町駅、横浜駅地下化に伴い、深夜に地下線の切り替え作業が行われた。作業はわずか3時間強で終了した。

反町

反町駅(たんまちえき)は、神奈川県横浜市神奈川区反町にある東京急行電鉄東横線の駅である。

島式ホーム1面2線の地下駅である。元々は相対式ホーム2面2線の地上駅だったが、2004年(平成16年)1月31日に地下化され、プラットホームは地下4階となった。

駅舎は地下駅に移行後も地上駅時代のものを使用していたが、2006年(平成18年)3月28日から新駅舎の使用が開始された。旧駅舎は同年4月中に解体され、跡地は緑地化される予定である。

改札口からホームまでは、階段で156段ある。このほか、改札口からホームまではエスカレータ・エレベーターでも連絡している。

地上駅時代にはトイレは構内に設置されていなかったが、2004年12月頃に1階改札内に新設された。ユニバーサルデザインの一環として多機能トイレも設置されている。

* 国道1号(横浜新道)
* 京急本線神奈川駅(徒歩5分)
* JR京浜東北線・横浜線東神奈川駅(徒歩10分)
* 京急本線仲木戸駅(徒歩10分)
* 横浜市営地下鉄ブルーライン(3号線)三ツ沢下町駅(徒歩10分)
* 神奈川区役所
* 横浜反町郵便局
* 反町公園
* 本覚寺
* 横浜信用金庫反町支店
* 横浜銀行反町支店
* 三菱東京UFJ銀行(ATMのみ)
* 横浜市立青木小学校
* 横浜市立栗田谷中学校
* 大原簿記情報ビジネス専門学校横浜校(2007年4月に名称変更、旧・大原簿記専門学校横浜校)(徒歩約5分)
* 大原医療秘書福祉専門学校横浜校(2007年4月に変更、旧・大原情報ビジネス専門学校横浜校)(徒歩約4分)
* 大原法律公務員専門学校横浜校(徒歩約5分)

国道1号上にある東横反町駅前(横浜市営バス)バス停が最寄りである。

* 50系統 神大寺入口・横浜駅西口行(栗田谷経由) ※大半は神大寺入口止まりである。
* 深夜バス(362系統) 保土ヶ谷車庫行 (三ツ沢総合グランド入口径由)
* 35系統 横浜駅西口行(青木橋経由)

駅付近を01系統、201系統(岡沢町・和田町経由)が走っているが東横反町駅前は通らず、国道1号を西に300mほど歩いた松本停留所から利用することになる。なお反町停留所は駅から離れた場所にあり最寄停留所にはならない。

* 1926年(大正15年)2月14日 - 開業。
* 2004年(平成16年)1月31日 - みなとみらい線との相互直通運転開始のため、地下化される。
* 2006年(平成18年)3月28日 - 新駅舎の使用が開始され、改札口や自動券売機などの位置が一部変更される。

開業時、横浜市青木町字反町に所在していたことによる。

「反町」の由来には諸説あり、「段町」から転訛した説もあれば一反二反の「反」から来る説や、元来この地が数年毎に休耕していたため休耕地のことを「ソリ」と呼ぶことから「ソリマチ = 反町」となった説がある。

田園調布

阪神間モダニズムと呼ばれる時代の小林一三の宅地開発を範として、イギリスの田園都市構想を参考に近代に開発された近郊住宅地がその始まりである。高度成長期の頃より、兵庫県芦屋市、神戸市東灘区御影と並ぶ高級住宅街として併称されるようになった。特に駅西側に広がる、扇状に整備された区画一体は、銀杏の並木と相まって「高級住宅地」としての趣を備えており、国土交通省の都市景観100選にも受賞している。

田園調布の町名には、大田区の田園調布一丁目~五丁目・田園調布本町・田園調布南、世田谷区の玉川田園調布一丁目,二丁目がある。高級住宅街のイメージで語られる際の「田園調布」とは、駅西側に広がる扇状の街路付近大田区田園調布三丁目を中心とした一帯を指す。

駅東側や、東急東横線多摩川駅付近、東急多摩川線沼部駅が最寄の田園調布本町、田園調布南は、高級住宅地として語られる地区とは町の成立過程が異なる。田園調布本町、田園調布南は、古くは上沼部村、下沼部村であった地域で、のち東京市大森区田園調布一丁目、二丁目であった。1970年の住居表示実施にあたって田園調布駅東側地区が一丁目、二丁目となるに際し、沼部駅付近の旧一丁目、二丁目一帯は、現在の「-本町」「-南」と改称された。

開発当初は日本の都市に新たに出現した中堅層向けの住宅地であったが、良好な住宅環境であったことから次第に評価が高まった。現在も長嶋茂雄、石原慎太郎、五木ひろし、中井貴一、野村克也・沙知代など著名人や芸能人が多く住んでおり、政治家、芸能人、スポーツ選手以外にも、日本を代表する企業のオーナーや社長の邸宅が立ち並んでいる。1980年代には星セント・ルイスのギャグのネタ(「田園調布に家が建つ!!」)にもなった。かつては鹿内春雄・頼近美津子夫妻や横井英樹、中内功、高峰三枝子の家もあった

多摩川沿いでは奈良時代頃に布を調(税としての特産物)として納めており、これに由来する調布という地名が散見される。

現在の田園調布本町、田園調布南の地域は古い文献には荏原郡沼部郷とみえる。江戸期には上沼部・下沼部の2村が並立した。明治時代の市町村制により鵜の木・峯・上沼部・下沼部の4村が合併し、調布村となった(1889年)。1928年には町制を施行した。当時、東京府内には、北多摩郡調布町(現調布市)及び西多摩郡調布村(現青梅市)が存在したが、荏原郡調布村は町制施行にあたり、既存の調布町との町名の重複を避けるため、東を冠し東調布町とした。

住宅地としての起源は1923年に田園都市会社が「田園都市多摩川台」として分譲を始めたことによる。目黒蒲田電鉄の調布駅が開設され、1926年に田園調布駅と改称した。田園調布の名称、開発当初ははこの田園都市会社が分譲した地域(現在の大田区田園調布二丁目・三丁目、世田谷区玉川田園調布一丁目・二丁目にあたる地域)を指したが、その後町名は隣接する下沼部一帯を併せて「田園調布」になった。

大田区側を管轄する警察署や消防署は、「東調布警察署」「-消防署」を名乗ったが、1987年12月に警察署が、1994年11月1日に消防署がそれぞれ「田園調布-」と改称した。

会社(事業体)では東調布信用金庫があったが、統合により芝信用金庫が継承している(2005年現在)。

地元自治会として「田園調布会」がある。この会は、環境保護に厳格であり、住宅の新改築に際しては厳しい制限を求めており、かつて鈴木その子や折口雅博らの住宅改築に際に、クレームをつけている。

福島県西白河郡大信村(現 白河市)では、村が造成した宅地に「田園調布」という名前をつけようとしたが、大田区の田園調布会に相談したところ難色を示されたため、字を変えて「田園町府」とした。この村には他に「赤坂」という宅地や「青山墓地」という村営墓地など、東京の地名・施設名と同じものがあった。

新丸子

新丸子駅(しんまるこえき)は、神奈川県川崎市中原区新丸子町にある東京急行電鉄の駅である。

のりば
1 ■東横線 武蔵小杉・日吉・菊名・横浜・
みなとみらい線 元町・中華街方面
2 ■目黒線 武蔵小杉行
3 ■目黒線 田園調布・大岡山・目黒・○南北線 赤羽岩淵・
埼玉高速鉄道線 浦和美園・○都営三田線 西高島平方面
4 ■東横線 自由が丘・中目黒・渋谷・○日比谷線 北千住方面

駅の1日平均乗降客数は2006年度のデータによると、東横線が20,949人、目黒線が4,949人である。接続するバスが少なく徒歩圏内に急行列車等が停車する武蔵小杉駅がある(駅から武蔵小杉駅が見える)ことから、利用者数は周辺の東横線の駅に比べて少ない。

* 児童交通公園
* 丸子橋
* 丸子山王日枝神社
* 日本医科大学新丸子キャンパス・日本医科大学武蔵小杉病院
* 大西学園小学校・大西学園中学校・大西学園高等学校
* 等々力陸上競技場
* 丸子温泉
* 新丸子郵便局

* 1926年2月14日 開業。

※新丸子はかつては色町として栄えた。その名残で、東横線沿線にしては珍しく路線沿いにラブホテルが数箇所ある。

* 2007年4月18日 フジテレビ系実写版ドラマ「まるまるちびまる子ちゃん」で主人公を演じる伊藤綺夏が1日駅長を務めた。時間限定で駅名表示板にまる子ちゃんシールが貼られた。

* 駅設置当時の所在地は橘樹郡中原村大字上丸子であったが、目蒲線(現在の東急多摩川線)「丸子駅」との混同を避けるため「新丸子」駅となったとされている。
なお、上記「丸子駅」は東横線開業後程なく「武蔵丸子駅」に改称。さらに翌年「沼部駅」に再改称している。
* 「丸子」の由来については古来荘園制度の際、この地に丸子荘があったからだという説がある。

武蔵小杉

武蔵小杉(むさしこすぎ)は神奈川県川崎市中原区の武蔵小杉駅を中心とした地域の通称である。

正式な町名としては小杉町を中心としてその周辺の小杉陣屋町および小杉御殿町などを含める。東急東横線では、ちょうど渋谷と横浜の中央に位置する。

中原区の行政及び商業の中心地区である。

江戸時代には中原街道の小杉宿として栄えた。1927年に南武線(南武鉄道)の駅が開設される際、富山県に既にあった小杉駅との区別のために所在地名の小杉に旧国名をつけて「武蔵小杉」とされたものであるが、現在では駅周辺を指す地名ともなっている。

JRと東急が十字に交差しており、十字に4分割されるエリアごとで違った趣をもっていることが特徴的。

北西エリアから南西エリアにかけては、二ヶ領用水が流れているため、古くからの住宅地である。特に南西エリアは法政通り商店街などを抱え庶民的な雰囲気をもっており、かつ、飲食店も充実しており、現在のところは武蔵小杉で商業が最も盛ん。ただし、このエリアは風俗店やパチンコ店舗なども混在しており、工場地帯に隣接する街としての一面を持っているとも言える。また、北西エリアには中原区役所が近いなどオフィス街の面を有する。

また、駅北側の東横線沿いは古くは繁華街であった新丸子駅周辺から連続する商店がある。

これに対し、駅南東側は平成に入るまで大規模な工場地帯であった。しかし、南側を中心に再開発事業が進行しており、この事業に合わせて他北の2エリアもそれぞれで施設の移転や取り壊しなどが計画もしくは実行されており、今後街の様相は大きく様変わりしていくと考えられている。再開発については後述。

再開発やJR横須賀線の駅新設計画によって地価が近年大きく値上がりしており、首都圏でも注目度の高いエリアとなっている。

愛称的呼称として地元住民を中心に「コスギ」と呼ばれる。一方、川崎市が再開発にあたり「ムサコ」という名称を推奨したが、反発が大きく根付いていない

近くに日本電気玉川事業場やキヤノン小杉事業所、隣の武蔵中原駅に富士通本店・川崎工場があり、その関連企業が南武線以北にあるビルに事業所を多く構えている。概ね国道409号・JR南武線・東急東横線に囲まれた地区が商業等施設の集積地、周囲は住宅地となっている。

市民の憩いの場としては、多摩川河川敷、等々力緑地、二ヶ領用水、中原平和公園、川崎市平和館などがある。

また、地元の法政通り商店街以外にも、周辺には元住吉の商店街、溝の口の商店街などがあり、女性にはうれしい立地となっている。

駅周辺に工場跡地等、未利用のまとまった土地があるなど、再開発に適した条件があり、民間の力を利用した大規模開発行われる。再開発の規模としては、 37haが開発され15000人が暮らす予定で、汐留の再開発よりも規模が大きい。特に、駅周辺の約800m²のエリアに国内最高層となる59階建てを含む計9棟の高層マンションの建設が同時に進む。

北側地区
南武線北側の武蔵小杉タワープレイス等があるエリア。再開発の事業主体は新日石不動産、三井不動産レジデンシャル他。

* ホテル・ザ・エルシィ跡地 - 2007年9月末で営業を終了したホテル・ザ・エルシィの跡地には隣接する2棟のビルと合わせて大型商業施設の建設が検討されている。
* 新日本石油社宅跡地 - 新日本石油社宅が2009年3月末で廃止、新日石不動産、三井不動産レジデンシャルが共同で何らかの施設を建設する。
* ペデストリアンデッキ - JR武蔵小杉駅北口に設置。
* 街区公園
* 日本医大武蔵小杉病院 - 建替えが検討されている。
* 大西学園 - 建替えが検討されている。

武蔵小杉駅南部A地区
フロムや公園等が存在したエリア。再開発の事業主体は東急不動産。

* 37Fマンション - 高さ140m。1F~5Fは商業施設となり4F~5Fには中原図書館が移設し、図書館としては市内最大級となる。2011年8月完成予定。
* 駅前広場:変電所を地下化し、上記マンションに隣接する。
* 小杉第一公園 - 上記駅前広場隣接。駐輪場(400台)が設置される。


東急東横線武蔵小杉駅に付随するエリア。再開発の事業主体は東京急行電鉄。

* 駅上部人工地盤 - 東急東横(目黒)線ホームの上部に3,000m²の人工地盤を設置する。商業施設としての運用が検討されている。

* リエトコート武蔵小杉 - 2棟のタワーマンション(共に47F(高さ161.77m(西側)/161.14m(東側)))で、ダヴィンチが賃貸で運営。2008年2月28日完成予定。
* ザ・コスギタワー - 49Fのタワーマンション(高さ160m)。2008年6月下旬完成予定。
* R-Styles武蔵小杉 - WEST、EASTの2棟の賃貸マンション(共に12F(高さ40m))。完成済。
* 武蔵小杉新駅前(B棟) - 7Fマンション(高さ19.9m)。2009年3月末日完成予定。
* 公園 - 上記施設の近くに新設される。

* 聖マリアンナ医科大学東横病院 - 現在の聖マリアンナ大学東横病院を新築建替えを行い、5F専門病院となる。用地の一部を売却したため敷地面積は狭くなる。2008年2月28日完成予定。
* セントスクエア武蔵小杉 - 聖マリアンナ医科大学東横病院が売却した敷地に建設される16Fマンション(高さ56.12m)。2008年3月末日完成予定。
* 中原警察署 - 老朽化のため新築建替えを行う。2008年6月30日完成予定。
* 地下鉄武蔵小杉駅 - 川崎縦貫高速鉄道の第1期事業の終着駅となる。現在事業免許取得に向け計画策定中、2018年度開業目標。

現在で3路線の利用が可能であるが、東急線は直通運転を多く行っており、また今後の鉄道整備でさらに利用可能路線が増える予定。首都圏でも有数のターミナル性を備えた駅であり、今後の再開発でさらにその注目度は高まるものと思われる。特に東横線は沿線の駅でも他路線との乗り換えになっている駅が多く、武蔵小杉は鉄道利用者には大変使い勝手のいい街と言える。 東京、新橋、品川、池袋、新宿、渋谷、六本木、横浜、元町・中華街駅、新横浜、川崎等へ乗り換えなしで行く事ができる。

駅については武蔵小杉駅も参照の事。

綱島

「ツナシマ」とは州の中の島、中州、湿地に浮かぶ島、津の島という意味であると言われる。これは地区が、南側の鶴見川、東側の早渕川に挟まれている地域であることからか、かつて鶴見川または早渕川にあったある中州がツナシマと呼ばれていて、それが自然にその周辺地域をさす言葉になったかである。

また、「ツナシマ」とは連なり島(つらなりしま)の意であり、かつて鶴見川が東京湾の奥深い入江となっていた時代に、現在の綱島公園、神明社、綱島諏訪神社となっている高台が、複数の島となっていた様子から名付けられたとも言われている。

江戸時代は武蔵国橘樹郡の南綱島村および北綱島村であり、天領(幕府直轄地)の農村であった。鶴見川の氾濫に絶えず悩まされ、堤防の上積みを巡り近隣各村との争いも絶えなかった。両村とも水難村のため東海道神奈川宿の定助郷にはならず、加助郷に序していた。この他保土ヶ谷宿の掃除役・普請の人足提供を行っていたが、幕末には神奈川宿の助郷村となっていた。

1889年4月1日町村制施行に伴い、南綱島村および北綱島村の二村は樽村・大曽根村・太尾村・大豆戸村・菊名村・篠原村の周辺各村と合併して大綱村が成立。旧村域に大字を置き、旧村名を大字名としたため、綱島地区には南綱島・北綱島の二大字が置かれた。

1926年2月14日に東京横浜電鉄(現在の東急東横線)が開通し、綱島温泉駅(現・綱島駅)が開業してからは駅前に同社が建設したラジウム温泉の温泉浴場が設置され、また、駅周辺は分譲地として売り出された。1927年4月1日、橘樹郡大綱村は横浜市に編入され、大字南綱島・北綱島を廃し、新たに南綱島町・北綱島町の二町が置かれた。この二町は同年10月1日に神奈川区に編入された。1929年には東京横浜電鉄による乗合バス(現在の東急バス)が綱島街道上を東神奈川駅まで運行され、次いで1931年に鶴見臨港鉄道が鶴見駅西口まで、また、個人の池田利一が千年(現在の川崎市高津区)までの路線を相次いで運行した。こうして、それまでは果樹(桃)栽培や養蚕が主産業であった綱島地区であるが、駅前を中心に温泉街が形成されるなど徐々に市街化され、1937年頃より急激に宅地化・工業化が進み、農村から都市へと変化していった。

1939年4月1日、港北区に編入。1947年3月12日、早渕川の向かいに位置する飛び地に綱島上町を設置。1949年、南綱島町、北綱島町より綱島町を新設し四町になる。いずれも耕地整理事業によるもので、新吉田町・日吉町・箕輪町の各町と境界変更を行った。1951年4月1日、綱島上町を除く三町を校区とした横浜市立綱島小学校が開校(大綱小学校より分離独立)。1962年3月1日、鶴見区駒岡町字新川向の一部を南綱島町字新田耕地に編入。周囲と共に東急不動産の手により「南綱島住宅」として売り出された。1971年、綱島郵便局が集配局として開局(港北郵便局より分離。港北区の鶴見川以北を管轄)。同年9月1日、横浜市立綱島東小学校が開校(綱島小学校より分離独立)。1973年6月11日、住居表示が実施され、綱島町・南綱島町・北綱島町を廃し、新たに綱島東一~六丁目、綱島西一~六丁目、綱島台の各町が設置される。これはこれまでの三町の境界が複雑に入り組んでおり、また飛び地も多く混在し合っていた事から東急東横線を境に東西に分け、また、台地は綱島台として別個に新設したもの。この時、樽町の鶴見川北岸にあった飛び地も編入している。

* 綱島東一丁目 南綱島町字別所耕地・表前耕地の一部及び北綱島町、樽町字堤外の飛地
* 綱島東二丁目 南綱島町字表前耕地・広町耕地・下前耕地の各一部及び北綱島町飛地
* 綱島東三丁目 綱島町の一部、南綱島町字表前耕地・下前耕地の各一部
* 綱島東四丁目 綱島町の一部及び北綱島町飛地
* 綱島東五丁目 綱島町の一部、南綱島町字下前耕地の一部及び新田耕地、北綱島町飛地
* 綱島東六丁目 綱島町の一部、南綱島町字下前耕地の一部及び北綱島町、樽町字堤外の飛地
* 綱島西一丁目 南綱島町字別所耕地の一部及び北綱島町飛地
* 綱島西二丁目 綱島町の一部、南綱島町字別所耕地の一部及び北綱島町飛地
* 綱島西三丁目 綱島町の一部、南綱島町字別所耕地の一部及び北綱島町飛地
* 綱島西四丁目 綱島町の一部、北綱島町字北前耕地の一部、新吉田町字具々田の飛地
* 綱島西五丁目 綱島町の一部、北綱島町字北前耕地の一部
* 綱島西六丁目 綱島町の一部、北綱島町字北前耕地の一部及び南綱島町飛地
* 綱島台 南綱島町字別所耕地、北綱島町字北前耕地・広町耕地の各一部(相互の飛地を含む)

1978年4月1日、横浜市立北綱島小学校が開校(綱島小学校・日吉南小学校の校区より設置)。

かつては社用族の御用達として、また身近な観光地として栄えた綱島温泉郷も交通機関の発達等により次第に寂れ、また、住宅の需要が高まっていたこともあり1990年代までにはその殆どがマンション・商業ビル・駐車場に転換した。

* 作家・綱島理友のペンネームの由来である(同氏が綱島在住だった事による)。
* タマちゃん騒動の際、大綱橋畔までタマちゃんが来ていた。
* 林家三平が新婚旅行に訪れた。この他、往年の演歌歌手・三橋美智也が下積み時代、綱島温泉(現・東京園)でボイラーマンをしていた事がある。

菊名

菊名とは、横浜市港北区にある地名である。港北区の南東部に位置する。

昔は、葛名という名前であったが、菊が咲き誇る地であったことから、名菊と改名した。しかし、「嘆く」に語感が似ているため、菊名となった。(新編武蔵風土記稿による)

江戸時代までは武蔵国橘樹郡菊名村と称していた。1871年、廃藩置県に伴い神奈川県の所属となり、1873年10月には第三区六番組に編入された。1874年6月大区小区制が施行され神奈川県第三大区第五小区となるが、1878年郡区町村編制法が施行され神奈川県橘樹郡菊名村となり、1889年4月1日町村制の施行(いわゆる「「明治の大合併」)で神奈川県橘樹郡大綱村大字菊名となる。
1926年2月14日、東京横浜電鉄(現在の東急東横線)が開業し、菊名駅が設置される。同年9月1日には既に開通し村内を通過していた省線(現在のJR)横浜線も東横線との交差箇所に菊名駅を設置し、乗換駅となり以降交通の要所となる。また東横線開業に合わせ、駅周囲が東京横浜電鉄の手により開発分譲された。
1927年4月1日大綱村は横浜市に編入され、大字菊名を廃して菊名町を設置。10月1日神奈川区に編入されるが、1939年4月1日港北区に編入される。1942年1月、港北区役所が篠原町2148番地より菊名町780番地に移転し、区の中心部となる。
1951年、港北消防署開所。1960年、港北郵便局開局。1978年に区役所は大豆戸町に移転したため、庁舎跡を改装して1980年に港北図書館を開館。
1980年7月28日、住居表示に伴い、菊名町が廃され新たに菊名一~七丁目の七町が設置される。

* 菊名一丁目 菊名町字籠久保の東横線以西
* 菊名二丁目 菊名町字籠久保の東横線以東の南部
* 菊名三丁目 菊名町字籠久保の東横線以東の北部および字宮谷の横浜線以南
* 菊名四丁目 菊名町字宮谷の横浜線以北綱島街道以南
* 菊名五丁目 菊名町字宮谷の綱島街道以北
* 菊名六丁目 菊名町字和田前・宮狩・屋際の東横線以東
* 菊名七丁目 菊名町字和田前・宮狩・屋際の東横線以西および大豆戸町字下土腐の一部

港北区内における子育て支援の拠点施設ができたことから、その筋では有名になった。

2007年12月27日

博多

古く「那津(なのつ)」「荒津(あらつ)」「灘津(なだつ)」「冷泉津」「筑紫大津」と呼ばれて博多湾は、『続日本紀』において「博多大津(博多津)」と記されているのが見出される。外港であった博多津には鴻臚館が存在し、鴻臚館貿易が行われると遣唐使が経由地として訪れていた。
757年(天平宝字元年)に櫛田神社が創建。空海は博多に東長寺を建立している。乱に際しては、朝廷追捕使小野好古と藤原純友との争いで博多の町が焼失する。
好古は戦勝祈願にと櫛田神社に素盞鳴大神を勧請したとされる。のち、博多津では北宋や南宋の商人や住吉神社・筥崎宮など寺院神社や荘園領主らの私貿易による日宋貿易の拠点となった。
日宋貿易で栄え、近年の発掘調査から宋銭が博多でも流通してことが判明している。
宋人は船団を組んで盛んに往来し、博多に居を寺社とも結び付いた。このような宋商人は「綱首」(ごうしゅ、こうしゅ)と称される。栄西が博多に聖福寺を開山したのも、博多綱首が心物両面で援助したからであった。僧により茶・饂飩・蕎麦・饅頭が日本にもたらされ、博多はこれらの発祥だという説がある。
頃に清盛は博多に人工港「袖の湊」(そでのみなと)を開いて日宋貿易の中継地としたと考えられている。
博多どんたくの前身である博多松囃子は、清盛の子重盛が博多の町にもたらした謝意を示したのがはじまりとされ、また博多祇園山笠は弁円が疫病の流行する博多の町を甘露水で清め回った1241年を起源としている。

元寇が襲来した文永の役(1274年)によって博多の町は焼失した。

1333年(元弘3年)に後醍醐天皇が挙兵すると、菊池武時が鎮西探題北条英時を襲い博多の町を焼き払った。
貞世は倭寇によって博多に連行された高麗人捕虜を哀れみ、毎年数百人単位で帰国させている。倭寇討伐の要請などを受け、大内氏とともに倭寇を討伐し、日明貿易(勘合貿易)開始に携わったが、讒言にて失脚した。

室町幕府は、私貿易を行っていた大内義弘を乱で討ったのち、博多商人肥富(小泉)の進言を受けて1401年(応永8年)に祖阿を正使、肥富を副使として明へ第1回遣明船を出してもいる。
この頃の博多商人は日明貿易や日朝貿易のみならず、琉球を経由して貿易にも関わり、中でも道安という商人は名代として貿易を行った。

日明貿易が再開した1432年(永享4年)、少弐嘉頼家臣・三原入道の家人と秋月満種家臣・原田種泰の家人が見物に来て博多祇園山笠の「追い山」の会場にて衝突、三原方50人余、原田方20人余の死者を出した。
翌年には少弐家人と大内持世家人が博多で衝突。この他にも守護大名同士や大身らは、筑前国の覇権や日明貿易の主導権をめぐって抗争を各地で起こした。大内政弘は少弐勢力を博多から追放、筑前や豊前までを勢力下に置き、博多の町は大内勢力と配下となる。

応仁の乱ののち堺が足利将軍家や日明貿易の拠点として台頭すると、大内氏と利害が衝突するようになる。
たるのが日明貿易の港寧波で大内義興一味と細川高国一味が争った波の乱(1523年)である。こののち大内義隆が1536年(天文5年)に遣明船を再開する。義隆は博多祇園山笠の舁きうち6本を周防国山口に分け移したと言われている。1551年(天文20年)に義隆が家臣陶晴賢の謀反で追われ自害したのち、博多の町は大友宗麟により統治される。
だが同年に筑前国衆の筑紫惟門が宗麟に反旗を翻して博多を襲撃し一万軒が焼失。
1569年(永禄12年)には毛利元就に懐柔された立花鑑載によって焼失。商人は肥前国に避難しており、神屋宗湛も唐津に逃れていた。
大友氏は、博多の町の南東を流れ那珂川に注ぐ比恵川の氾濫を防ぐため大規模な治水工事を元亀・天正年間に家臣臼杵鎮続に命じて行わせ、博多湾に流れ込むようにした。

大友氏時代の博多は九州で富裕な町であったと言われる。
博多では後年の1597年(慶長2年)の資料において「十六人之年寄衆」と残っている。宣教師アルメイダは「博多はキリスト教を受け入れず日本一布教しづらい土地であった。その理由は裕福で贅沢な町だからである」と伝えている。フランシスコ・ザビエルは途中に博多にも立ち寄っている。文献において博多は「Facata」「Focata」「Facatta」と記載された。その一人で神屋宗湛の祖父寿禎は大内義隆の父義興の支援で石見銀山を開発する。
日明貿易船やポルトガル船・オランダ船などに無担保で銀を融資し、航海成功時に3~11割の高利子を付けて返済させる「抛銀」(なげがね)というリスクの高い商行為がおこなわれており、神屋氏をはじめ博多商人もこれによって多額の利益を得た。
1580年(天正8年)には龍造寺隆信が筑前国に進撃。
博多の町の全土が焼失した。軍が博多を占領するも1586年(天正14年)8月下旬に博多を焼き払って撤退する。
同年6月10日に秀吉はポルトガル船に箱崎浜から乗船して焦土の博多を眺める。博多の復興に取り掛かり、黒田如水を住民を呼び戻す役目を担わせた。櫛田神社に社殿を寄進した。(さだめ)を発布。
問屋や座を禁じ、土地家屋への課税「地子」や武士への労役「諸役」も免除し、博多に武士が家を持つことも禁止され、博多の廻船を全国で保護し、喧嘩も両成敗とした。朝鮮出兵を見越して博多の町を兵站供給地とするためであったとされる。秀吉はこの博多滞在中の6月19日にバテレン追放令を発布している。

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