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2007年11月 アーカイブ

2007年11月06日

下北沢

下北沢(しもきたざわ)は、東京都世田谷区の北東部に位置する地域名。概ね同区北沢の全域と代沢の一部あたりを指す。略して下北(しもきた)とも呼ばれる。

町名としての北沢(きたざわ)は、一丁目から五丁目まで存在する。同地区の人口は、17,726人(2007年10月1日現在、住民基本台帳による。世田谷区調べ)である。

北に渋谷区笹塚、幡ケ谷、東に同区大山、上原、目黒区駒場、等、南に世田谷区池尻、太子堂、西に同区代田、大原に接する。

鉄道は、下北沢駅(小田急線、井の頭線)の他に東北沢駅(小田急線)、池ノ上駅(井の頭線)が設けられている。

道路は、茶沢通りの他に、東京都道420号鮫洲大山線、井の頭通りが通るものの自動車は元より休日には自転車の相互通行もままならないような巾員2m程度の狭小路地が多く、下北沢駅前の商店街などでは安全上の問題も指摘されている。

河川は北沢川が西から東に流れ、さらに、北沢川に合流する幾つかの小川・水路等が一部で起伏のある地形を形成し、下北沢駅は「支流」が形成する谷に位置している。下北沢の殆んどが北沢川の流域にあたる(参考:東京都HP他)。他に、玉川上水の水路が笹塚との境界付近を概ね北西から幡ヶ谷方面に向けて通る。ただ、これらの河川等は昭和時代までにほぼ暗渠化され、遊歩道の敷地などとなっている。さらに、かつては、当地区北部で三田用水が玉川上水から分水され、大山町、上原との境界に沿って流れていたが、暗渠化の後に廃止されている(参考:旧版地図、他)。玉川上水の水路は、現在はほぼ暗渠化され、遊歩道として整備されている。

東北沢駅や池ノ上駅は、谷に狭まれた台地状の地形に位置する。なお、この起伏は、井の頭線の車窓からもよく見える。

メディアで取り上げられ続けている下北沢駅前のイメージが強いが、それ以外の東北沢駅、池ノ上駅の駅前などに近隣商業または路線商業地域が形成されているものの、その他は概ね住宅地で、中小規模の共同住宅、木造等の戸建住宅が多い。小田急線および井の頭線の利用で新宿・渋谷へ十数分でアクセスでき利便性が高い。かつて佐藤栄作-竹下登邸(代沢)もあった閑静な住宅地の区域もある。

テレビ・雑誌等で三軒茶屋・自由が丘・中目黒・代官山等と並んで若者の街・ファッションの街に加えて小劇場の求心的な地域として紹介されることが多い。新しい店舗の多くは最近のメディア等で集まる客を相手にし、昔ながらの店舗は比較的庶民的な構えのまま残り、新旧が混在している雑多な街である。明治大学和泉キャンパス・東京大学駒場キャンパスなどが近いため、学生も多い。

下北沢駅は小高い丘を挟んで位置し南口は低く、西口周辺は高い位置にあり、狭隘な街路が入り組むといった地域特性から周辺住民を対象とした雑貨屋・古着屋・生地屋等が古くから存在し、コットン・タウンと呼ばれ脚光を浴びた時期もある。いくつかの店舗名にコットンを付けたものがあることで当時の名残りが偲ばれる。また北口の駅前には下北沢北口駅前食品市場という戦後の闇市の名残の場所がある。

狭い公共スペースともあいまって繁華性が目立つ一方で、渋谷の吸引力、街なみの整備の進む周辺の商店街(三軒茶屋、笹塚、他)との競争に直面している。たとえば、北部の北沢五丁目は、笹塚駅が近いこともあり、以前から笹塚の商圏といえる部分が大きく、「井の頭通りで隔てられたあそこは下北沢ではない」とかいった声も上がり、下記の街づくりへの反対運動にも結びついている。

商業地域は、それより前からある小田急線の線路で概ね区分される状態で、複数の商店街組織がある。

* 下北沢一番街
* しもきた商店街
* 下北沢東会
* 下北沢南口商店街
* 下北沢南口ピュアロード新栄商店会
* 代沢通り共栄会

街並みの状態、下北沢に警察署がないこと(交番はある)等が、却って商店街レベルでの防犯への危機感につながってきている面もある。パチンコ、北沢八幡宮例大祭での露天からの暴力団排除、近年では、落書き消去・防止の活動に力を入れている商店街もある。落書き消去は、東京周辺等の他地域の商店街からも注目され、たびたび報道でも取り上げられている(参考:平成4年警察白書、北沢八幡宮、他)。

元々東京府(武蔵国)荏原郡下北沢村であり、世田ヶ谷町への合併を経て世田谷区北沢・代沢になった。概ね現在の北沢一丁目~五丁目及び代沢二丁目、三丁目、五丁目並びに代沢四丁目の北東部及び代田五丁目、六丁目の東側ごく一部が旧下北沢村に該当する。

なお、代沢には、下北沢=旧北沢の一部以外に、代田の飛び地「下代田」等(概ね現:四丁目の一部、一丁目に相当)が編入された(「代沢」の地名はこれらに由来する)。

元々の中心は現在の代沢三丁目、五丁目付近、北沢八幡宮、森巖寺・淡島神社分社や代沢小学校のある辺りであり、明治時代の旧版地図には「下北澤本村」の文字が見られるものもある。今も茶沢通り沿いに商業地域が形成されている。なお、同神社の例大祭は、今も当地区最大級のイベントである(村開墾時代についても含めた詳細は代沢、北沢八幡宮参照)。

自由が丘

自由が丘(じゆうがおか)は、東京都目黒区の一地区。自由が丘一丁目から三丁目まで存在する。

また、東急東横線と東急大井町線の交差する自由が丘駅を中心として目黒区自由が丘と世田谷区奥沢に広がる住商業地域が、一般に自由が丘地域として認識されることが多い。

レストランが住宅街のところどころに点在し、洗練された街並みを形成している。また雑誌などのアンケートでは、「住みたい街」として上位に名を連ねることが多く、最近はしばしば1位に選ばれており[要出典]、城南地区を代表する住宅街でもある。ラ・ヴィータというイタリア系の家をモチーフにした店により、北側は洋風の家が目立つ。

自由が丘駅正面口ロータリーに立つ女神像(澤田政廣作)にちなんだ「自由が丘女神まつり」が毎年10月に開催される。

自由が丘駅周辺を循環する無料バスは菜種油により走るもので、環境にやさしいバスとして注目を浴びている。

自由が丘二丁目、自由が丘三丁目には丘が多い。これは、自由が丘の南に九品仏川があり、そこへ流れていた雨水が削っていったためである。

自由が丘の名は戦前に起こったもので、自由ヶ丘学園に由来する。自由が丘一帯は、もとは東京府荏原郡衾村字谷畑といった。1927年、この地に手塚岸衛が自由ヶ丘学園を開設した。

この校名は当地の地名として定着し、碑衾町(旧衾村と碑文谷町が合併)大字自由ヶ丘となり、1932年(昭和7年)の東京市域拡張による目黒区成立時(目黒町と碑衾町が合併)に東京市目黒区自由ヶ丘となったものである。

付近に、東京横浜電鉄九品仏前駅(現・東急東横線自由が丘駅)があったが、東急大井町線の延伸により九品仏の門前に駅が開設されることになり、この新駅が九品仏駅を名乗ることになったことから、九品仏前駅は、地名より衾駅に改称することとなったが、直前に地名が変更になったため新しい地名を採り「自由ヶ丘駅」と改称した。

1965年(昭和40年)に住居表示が実施され、表記は「自由が丘」となった。翌年1966年(昭和41年)には、駅名も「自由が丘駅」に改称されている。

自由が丘は東急東横線が開通するまでは竹やぶだったが、東急グループが開発をしていった。1970年ごろには町の形がほぼ整ったが、住宅街には木が多く、また、熊野神社に竹やぶの一部が残っている。

* 自由が丘駅
* 自由ヶ丘学園高等学校
* 自由が丘産能短期大学
* 東京急行電鉄
* ランキンランキン
* トレインチ自由が丘
* 自由が丘スイーツフォレスト
* 東急バス目黒営業所
* シェルガーデン
* 亀屋万年堂

目黒地域: 青葉台 | 大橋 | 上目黒 | 五本木 | 駒場 | 下目黒 | 中町 | 中目黒 | 東山 | 三田 | 目黒 | 祐天寺
碑衾地域: 大岡山 | 柿の木坂 | 自由が丘 | 洗足 | 平町 | 鷹番 | 中央町 | 中根 | 原町 | 東が丘 | 碑文谷 | 緑が丘 | 南 | 目黒本町 | 八雲

代官山

代官山町(だいかんやまちょう)は、東京都渋谷区の地名。単独で住居表示を行っている。東急東横線の代官山駅があり、単に代官山(だいかんやま)と呼ばれることが多い。地理的には、旧山手通りと駒沢通りの交差点である鎗ヶ崎に近い。

高級ブティックや高級菓子店が多い点では、青山や表参道と共通しているが、東京の都心から外れており、雑多で猥雑な商店街や飲食店が少ないため、落ち着いた雰囲気であり、隠れ家的な街となっている。

また、閑静な住宅街でもあり、住みたい街のアンケートでしばしば上位にランクインする。建築家の槇文彦によるヒルサイドテラスは、モダニズム建築におけるまちづくりの最高例とされ、槇のプリツカー賞受賞理由の一つとされている。また、駅前には代官山アドレスがあり、住居棟であるザ・タワーは代官山のランドマークとしてそびえ立つ。ここはかつての旧同潤会 渋谷アパートメント跡地に建設されたものである。

赤坂

赤坂(あかさか)は日本の地名または苗字。地名としての赤坂は日本各地に分布している。苗字としての赤坂は、赤坂地名に発祥しており、例えば陸奥国白河郡石川荘赤坂に発祥した赤坂氏(石川氏庶流)などがある。

各地の赤坂地名は、赤土の坂に由来すると解されている。このほか急な「上がり坂」がアカサカへ転訛したとする説などがある。赤坂地名は傾斜地や丘陵端にあることが多い。

赤坂地名は古くから現れており、早くは奈良時代中期の「平城京出土木簡」に備後国沼隈郡赤坂(現:広島県福山市赤坂)が、『続日本紀』に伊勢国鈴鹿郡赤坂(赤坂頓宮)の記事がそれぞれ見え、平安時代中期の『延喜式』『和名抄』には備前国赤坂郡と備後国赤坂郷が見えている。鎌倉期に入ると、美濃国不破郡赤坂(→赤坂宿 (中山道)。現:岐阜県大垣市赤坂)、三河国宝飯郡赤坂(→赤坂宿 (東海道)。現:愛知県音羽町赤坂)、筑前国那珂郡赤坂(→赤坂 (福岡市)。現:福岡市中央区赤坂)などが史料に現れるようになり、その後、南北朝期、室町期、戦国期を通じて赤坂地名が史料上に多く検出されている。

赤坂地名のうち特に著名なのが東京都港区の赤坂(→赤坂 (東京都)現:東京都港区赤坂)である。東京の赤坂は中世以前には見られず、江戸初期に発祥したと考えられている。由来には、茜山への坂(現在の紀伊国坂)によるとする説、赤土の坂によるとする説などがあるが、寛永年間に建てられた江戸城の門が地元の小字から「赤坂御門」と呼ばれるようになり、ここから赤坂が一帯の地名になったと考えられている。

* 地名、宿場
o 赤坂 (東京都) - 東京都港区の一地区。TBS本社、アークヒルズなどがあるビジネス街。
+ 赤坂 - 赤坂と六本木の境界にある南部坂の別名。
o 赤坂宿 (東海道) - 東海道の江戸から数えて36番目の宿場。愛知県宝飯郡音羽町赤坂。
o 赤坂宿 (中山道) - 中山道の江戸から数えて58番目の宿場。岐阜県大垣市赤坂。
o 千早赤阪村 - 大阪府南河内郡千早赤阪村。
o 赤坂町 - 岡山県赤磐郡赤坂町(あかさかちょう、現赤磐市)。
o 赤坂 (福岡市) - 福岡市中央区にあるビジネス街。中央区役所などがある。繁華街天神の隣に位置する。

*
o 青森県黒石市赤坂
o 秋田県横手市赤坂
o 栃木県佐野市赤坂
o 群馬県吾妻郡中之条町赤坂
o 山梨県甲斐市赤坂台
o 長野県小諸市赤坂
o 福井県越前市赤坂
o 広島県福山市赤坂
o 福岡県北九州市小倉北区赤坂
o 福岡県飯塚市赤坂
o 佐賀県唐津市肥前町赤坂


* 日本人の姓の一つ。有名人は赤坂泰彦など。
o 人名一覧(赤坂)

青山

青山(あおやま)は、東京都港区の地域名であり、その範囲は南青山一丁目~七丁目と北青山一丁目~三丁目である。「青山」という町名は(過去も含め)存在しない(ただし、青山を冠称する町名は過去に存在した)。

の重臣であった青山家の広大な屋敷にちなんで、この付近一帯の町名に青山を冠した(青山○○町)ことが地名の起こりである。

青山家の末裔には、骨董鑑定家青山二郎(1901年-1979年)やゲランミツコで有名なクーデンホーフ・ミツコ(1874年-1941年)がいる。現今ではブティック・美容室など服飾関係の商店が目立つ。

青山家が江戸時代中期に八幡藩(現岐阜県郡上市)を所領とした縁で、同家の菩提寺である南青山の梅窓院では、年に一度「郡上おどり in 青山」が催される。

1966年10月、住居表示実施に伴い町名と町域が変更され、この地区を横断する青山通りを境に北青山と南青山が誕生した。

この北青山一丁目~三丁目、南青山一丁目~七丁目の範囲は、住居表示実施前の青山北町と青山南町のほぼ全域と、同じく青山地区だった青山三筋町や青山高樹町を加えた範囲に相当する。(このほか、隣接する麻布笄町、麻布新龍土町、原宿一丁目、赤坂檜町、赤坂新坂町のごく一部の区画を編入した。)青山六軒町の東側と青山権田原町だけは元赤坂二丁目への編入となった。

この青山高樹町の名前は首都高速道路のインターチェンジ(高樹町出入口)などにその名を留めている。

* 表参道通り
o 表参道ヒルズ
* 明治神宮外苑
* 青山ブックセンター
* 青山ラミア
* アオヤマツイン
* フロムファースト
* フロラシオン青山
* 青山パラシオタワー
* 青山オーバルビル
* スパイラル
* 骨董通り
* 根津美術館
* 本田技研工業本社
* 伊藤忠商事本社
* 帝国データバンク本社
* 健康保険組合連合会(健保会館) 
* 青山墓地
* 青山斎場

秋葉原

秋葉原(あきはばら、あきばはら)は、東京の秋葉原駅周辺、主として東京都千代田区外神田、神田佐久間町、神田花岡町、台東区秋葉原周辺を指す地域名である。電気街として、日本国内のみならず世界的に知られている。秋葉(あきば)・アキバの略称で呼ばれることも多い。

地理概念的に言う秋葉原とは、東は昭和通り、西は昌平橋通り、南は神田川、北は蔵前橋通りに囲まれた区域、すなわち東京都千代田区外神田・台東区秋葉原を指す(一般に言われる秋葉原はほとんど千代田区にあるが、1969年10月1日に秋葉原駅北端から北へ100メートル程の辺りの台東区側に「秋葉原」の町名が誕生した)。現在、一般的にアキバと言われる場合は秋葉原電気街を指す事が多いが、この場合は更に局限され、秋葉原駅を核として東限はJR線までの中央通り沿いを中心とした地域となる。

JR秋葉原駅には東西に総武本線、南北に東北本線(山手線・京浜東北線)が通る。秋葉原電気街は秋葉原駅から北西方向を中心としており、住所表示では電気街口前が外神田一丁目、その北の中央通り東側が四丁目、西側が三丁目。メイド喫茶集中地区は外神田三丁目となっている。

一般的には「世界の秋葉原電気街」という印象が強いが、「家電量販店がひしめき合っている」「家電品が安く買える」という意味での電気街は、近年徐々に衰退の方向にある。

「家電量販店がひしめき合っている」という点では、むしろ池袋や新宿の量販カメラ店などのほうが目立ち、しかも大型店舗が多く、便利に買い物が出来る。また、「家電品が安く買える」という意味でなら、都市郊外に多数立店する家電量販店チェーンのほうが安い場合も多くなっている。また在庫や店舗保持のコストがかからないネット商品の方が値段の安い場合が多く、秋葉原で商品を手にとって確かめ、実際の購入はネットで買う消費者が現れている。これに対抗しネットでの販売に力点を移し始めた店もある。

しかし、量販店が通常様々な理由により取り扱わない電子部品を扱う販売店(その殆どは戦後の闇市時代に創業した、1区画あたり2畳程度の広さの店舗で個人が経営している)は現在でも秋葉原駅近くの総武線ガード下を中心として根強く生き残っており、「秋葉原電気街」の源流は今もなお命脈を保っている。

電気系部品についての詳細は#電子部品を参照。

これら電気街とは別に、秋葉原では古くはハイファイオーディオやアマチュア無線の愛好家、近年ではパソコンマニアたちが集まるサブカルチャーマニアの街という側面が存在する。

20世紀末にはこれらのマニアよりも若者向けアニメ・ゲームマニアなどのいわゆるオタクが大挙して集う様になり、21世紀初頭からはマスコミに彼らの存在が頻繁に取り上げられるようになった事を機に街全体がホビーショップ化。この頃より「秋葉原電気街」は「オタクの街・アキバ」として広く知られる様になった。そのオタクの事を一般的には「アキバ系」と呼ばれる。各種グッズを目当てに押し寄せる人々の影響で、さながら観光地の様相も見せ始めた。

2005年8月24日のつくばエクスプレス開業とヨドバシカメラマルチメディアAkibaの開店はそれに拍車を掛け、最近はオタクでは無い普通の人々も身構えることなく、ごく普通に秋葉原を訪れる様になってきた。

しかし、マスコミの興味本位的な取り上げ方や、一般層が向ける奇異な目を嫌ったマニア、及び彼らを顧客とするショップの一部は、近年秋葉原を離れ、秋葉原ほどではないものの、各種グッズを扱う店が比較的多い中野ブロードウェイ周辺地域に流れる動きもある。また、女性向けのアニメ・ゲーム系グッズやコスプレ用品ショップ、ボーイズラブ系同人誌を扱うショップは、男性向けの同種の店が開店しはじめた当初こそいくつかみられたが、のち俗に「乙女ロード(オタク通り)」と呼ばれる、池袋・サンシャインシティ西側周辺地域に集中して出店する傾向が見られ、男性向けの店舗主体の秋葉原と棲み分ける格好になっている。

一方で、電気街口北側の駐車場跡(かつての神田市場の跡地)に、産学連携プロジェクトやオフィス機能などを持つ施設、「秋葉原クロスフィールド」が2005年に誕生し、ほぼ同時期にオープンしたヨドバシカメラマルチメディアAkibaと並び、それまでのアキバのイメージとは大きく異なる存在感を放っている。

PC(パソコン)関連商品についての詳細は#パソコン(PC)関連、ホビー系グッズについての詳細は#アニメ・ゲーム・同人誌関連を参照。

冷戦時代は高度な品質の電子部品を買い付けに来る東側社会主義国の外交官の存在などが噂されたこともある。

もともと電気街の前身は、軍放出のジャンク無線機や部品販売である。中古品販売業者も多い。店舗を構える業者もいるが、今だと、土日祝には露天やガレージでジャンク品販売業者を見ることができる。のぞいていく人も多い。ジャンク品の購入は、目利きができる人にとっては、秋葉原ならではの楽しみといえる。

近年、日本各地に郊外型の大規模中古品店舗(ハードオフなど)が増え、ジャンク品も扱われるようになってきたが、ことPC自作関連のジャンク品に関しては、秋葉原が質・量共に他の追随を許さない孤高の存在とされている。特に保守・組み込み系のジャンク扱い品は、日本でも秋葉原でしか滅多に扱われないことが多く、わざわざジャンク品を目的に秋葉原に来る人もいる。またジャンク関連の店舗は地区のあちこちに存在するため、目的のものを見つけるのは容易なようで難しいのが秋葉原のジャンク店舗である。

浅草

浅草(あさくさ)は、東京都台東区の一地区。浅草一丁目から七丁目まで存在する。

元々は浅草寺を中心とする繁華街の俗称であり、また吾妻橋対岸の墨田区側も含めた地域、もしくは旧浅草区全体を指して浅草地域と認識されることもある。

戦前は東京随一の繁華街として栄えた。関東大震災と戦災で壊滅的な被害を受けたが、そのたびに目覚ましい復興をとげてきた。高度経済成長期以降は山手線沿線の新宿、池袋、渋谷などの発展により、東京を代表する繁華街としての地位はこれらの地区に譲ったが、現在も江戸情緒を感じさせる観光地として賑わっている。
アサヒビール本社ビル
アサヒビール本社ビル

古くからの浅草地区のランドマークとして浅草寺山門である雷門(かみなりもん)が知られるが、1990年代以降には吾妻橋対岸の墨田区本所にあるアサヒビール本社ビルもランドマークとして認知されつつある。

調理器具等の飲食店関連の用品を取り扱う合羽橋道具街など特殊な商店街なども存在する。

「吾妻鏡」の1181年(養和元年)の条に浅草の名が見える。古くから浅草寺の門前町として栄えていた。また江戸湊や品川湊と並んで、武蔵国の代表的な港である浅草の港が、石浜(現在の台東区橋場)や今津(現在の台東区今戸町)にあったとされる。

江戸時代には、明暦の大火(1657年)の頃、新吉原遊郭が。天保の改革(1841年)では遠山金四郎により、芝居小屋が浅草に移転してきた為、仲見世が発展し、後の一大繁華街となるきっかけになった。

明治時代には東京市15区の名前の一つに「浅草」が採用された。また浅草寺を中心とした地域を明治時代に公園化し東京初の都市公園である浅草公園となった。浅草公園を6つの区に分けたことから、浅草公園六区ともよばれた。なおこの言い方はその中で一番にぎやかだった地域である第六区のみを指す場合が多い。

明治時代に凌雲閣(通称十二階)などが建てられ、江戸以来の繁華街として新たに演芸場や芝居小屋等が建ち、東京庶民の歓楽街として知られるようになった。関東大震災以降の興行界は、松竹の進出が本格的となり戦前の昭和においては有楽町に進出した東宝と覇を争った。戦後は松竹歌劇団(SKD)の本拠地である国際劇場やロック座、フランス座などのストリップ興行で賑わった。

また、関東大震災後から第二次世界大戦前までに東武線及び地下鉄銀座線が乗り入れた。今は下町らしさを主とした観光地としての側面の方が大きくなってきている。

* 浅草芸能大賞
* 浅草御蔵
* 浅草紙
* 浅草文庫 - 江戸時代から明治時代にかけて昌平坂学問所の書物を保管した図書館。
* 浅草鉄銭 - 江戸幕府が浅草で鋳造した貨幣である。天保期のものは一文銭で、安政期のものは四文銭。
* ダン・ミセリ - 元巨人選手。解雇後に家族で観光をしたので有名。
* 新世界
* 凱旋門
* めぐりん - 台東区のコミュニティバス
* アニマル浜口 - 「アニマル浜口トレーニングジム」を開き、一般向けのフィットネスの他に、プロレスラー養成や浜口京子のようなアマチュア選手のトレーニングを受け持っている。TVに映る浜口京子の応援団は京子を子供の頃から知る浅草の人々である。
* ちい散歩 - テレビ朝日の番組。地井武男が第1回(2006年4月3日)放送で浅草を散歩した。

麻布

麻布(あざぶ)は、東京都港区の一地区である。麻布は山の手の台地と谷地で起伏に富んだ土地である。麻布という字が当てられるようになったのは江戸時代の元禄期からといわれる。

麻布は基本的に住宅地である。都心の一等地にあるため地価が高く、特に高台は富裕層が多く住んでいると言われている。低地側には幹線道路が通っており、幹線道路沿いには高層マンションが目立つ。

地理的には、麻布地域の縁を沿うように「古川」が流れており、この川によって山と谷、高台と低地が形成され、起伏に富んだ、坂道の多い地形である。

高台は閑静な住宅地となっているが、低地は下町風である。主な低地として、麻布十番や東麻布などがあり、どちらも古くから職人が移り住んだことで、下町らしい文化が形成されたと言われる。

近年まで、麻布地域内の鉄道駅は南麻布の端にある広尾駅しかなく、または隣町の六本木駅や神谷町駅がある程度で、鉄道でのアクセスが悪い場所だった。そのため、麻布はマイカーやタクシー利用でのみ来ることができるという大人なイメージのある隠れ家的な地域であった。しかし、2000年に大江戸線麻布十番駅、南北線麻布十番駅、大江戸線赤羽橋駅、南北線白金高輪駅の4駅が相次いで開業し、鉄道しか移動手段がない者でも容易に来ることができるようになった。鉄道駅開業後は、雑誌でも麻布十番駅周辺の商店街が取り上げられることが多くなったため、鉄道利用の人々にとっては、麻布というと、麻布十番という下町的な雰囲気のみを連想しやすい。

なお、現在は麻布と六本木は別の町のように思われまた扱われるが、元来六本木は麻布の一地区であった。そのため、現在でも麻布と六本木は行政区分などの点で地域的繋がりが強い。例えば、麻布警察署や麻布図書館は六本木にある。

麻布周辺には貝塚などが見られ縄文時代から人間が住んでいた。弥生時代には農業も行われていた。

712年には竹千代稲荷(現在の十番稲荷)が創建、824年には空海により麻布山善福寺が開基、939年(天長元年)には氷川神社が源経基により勧請される(1659年に現在の位置に移転)。

江戸時代初期までは農村や寺社の門前町であった。武家屋敷が建ち並ぶようになり、江戸の人口増加・拡大につれ都市化し代官支配から町方支配にうつる。馬場が1729年(享保14年)に芝から麻布に移転、十番馬場と呼ばれた。馬場移転に伴い馬市が立ち麻布十番は栄える。

1859年(安政6年)にアメリカ公使館が善福寺に置かれる。明治時代には古川が埋め立てられ鉄道馬車が通り工業化が進む。次第に台地の上は高級住宅街、低地には零細商工業といった分化がすすむ。大正時代には麻布十番を中心に花街や演芸場、映画館、デパートなどが造られ東京でも有数の盛り場となる。第二次世界大戦では空襲で大きな被害を受けるが、戦後に復興する。

1949年に麻布十番温泉が開湯する。

戦後、地下鉄日比谷線の開通計画に際し、銀座に顧客を取られることを恐れ、地下鉄駅の開設反対運動が起こり路線は変更された。しかしながら結果として六本木に客足が向かうことになり長く商業的な停滞が続いた。2000年、南北線の開通に伴い麻布十番駅が開設され、駅前商店街の奥には六本木ヒルズが完成するなど嘗ての殷賑を取り戻しつつある。現在の麻布は、東京を代表する住宅地の一つとして知られ、芸能人・著名人・財界人など多くの人が住んでいる。

麻布区は港区の前身(東京市の行政区)の1つである。1878年に郡区町村編制法が施行され東京府域が15区6郡に区画分けされた際に発足した。その範囲は、今日「麻布」を名前に含む町すべて(麻布十番・麻布台・南麻布など8町)と六本木一丁目~六丁目の町域にほぼ一致する。

1947年に港区が発足し、麻布区は消滅。この際、旧麻布区域のすべての町名には「麻布」を冠する町名に変更がなされたため(一例、「六本木町」を「麻布六本木町」に変更)、住居表示の実施による町名町域統合が行われるまで麻布地区一帯には「麻布○○町」といった町名が41存在した。麻布永坂町に住む松山善三氏と麻布狸穴町に住む澤博士氏の両者の運動により、麻布永坂町と麻布狸穴町の地名だけが変わらず今日に残っている。

名称の経緯が似ている。→ 日本橋・神田地区

池袋

池袋(いけぶくろ)とは、東京都豊島区に属する池袋駅を中心とする副都心。または東京都豊島区に属する区画の一つ。

池袋は、新宿、渋谷と並ぶ山の手3大副都心の一つ。駅を中心に巨大な百貨店や専門店が集中し、飲食店や風俗店などがひしめく。繁華街は東西に広がり、1日に100万人の集客人員がある。この街の事を若者を中心に「ブクロ」と略して呼称されることもある。

東口方面には西武百貨店、ランドマークとなるサンシャイン60、女性向けオタクストリート乙女ロード、豊島区役所等があり、西口方面には東武百貨店、東京芸術劇場等がある。

8路線からなる巨大な鉄道ターミナルが形成されており、各地から種々雑多な膨大な人を集客する。特に西武池袋線・東武東上線・JR埼京線・湘南新宿ライン等を利用する東京都西部、埼玉県南・西部の住民が多い。

中心部から少し離れると、立教大学、重要文化財に指定されているフランク・ロイド・ライト設計の自由学園明日館、多くの著名人が眠る雑司ヶ谷霊園などの緑や文化財も多く、池袋演芸場などの寄席や小劇場もある。

駅や街の至る所にあるいけふくろう像は、「渋谷のハチ公に対して、池袋にも待ち合わせのメッカを」ということで、“いけぶくろ”と“フクロウ”を掛け合わせて考え出されたものである。特に、東口のものはJR発足時に設置されたものである。

戦国時代から「池袋」という地名が使われていることは分かっており、江戸時代の古文書からもその名を見つけることができる。現在の池袋駅西口のホテルメトロポリタン付近に存在していたとされる、袋型の大きな池が袋池と呼ばれており、それが直接の由来となったという有力な説があるが、確かなことは分かっていない。

現在の池袋駅より少し北西に離れた場所、今で言う豊島区池袋、豊島区池袋本町の辺りにかつて存在した「池袋村」が発祥とされている。1889年の町村制施行で巣鴨村の大字となる。

しかし、池袋の地は古くは栄えているとは言いがたい農村地帯であった。ここが栄えるきっかけとなったのは、鉄道の開業である。現在、赤羽線・山手線(埼京線)となっている赤羽駅~品川駅間の路線を、上野駅~前橋駅間に鉄道を開業させていた私鉄の日本鉄道が、官営鉄道(新橋駅~横浜駅)との接続を目的に1885年に開業させた。だが、この時池袋に駅は設けられなかった。

その後、1903年に田端駅への支線を建設する事になった。この時、当初は目白駅での分岐が想定されていたが、地形の問題で池袋を分岐点にする事になり、池袋駅の開設に至ったのである。だが、駅の外に畑が広がっているという状況はなかなか変わらなかった。

大正から昭和にかけ、東上鉄道(今の東武東上本線)や武蔵野鉄道(今の西武池袋線)なども池袋へ乗り入れるが、これらはどちらも当初繁華街とはいえなかった池袋は起点とせず、当時の繁華街であった神田・巣鴨(市電が1912年には乗り入れていた)への乗り入れを前提としていた。その過程において池袋は仮のターミナル駅として開設されたが、その後の事情でどちらも都心への延伸を断念し、結果として池袋起点となったものであった。この頃は、巣鴨の他に、白木屋があり王子電気軌道(今の都電荒川線、1911年に開業)と山手線が交差していた大塚駅辺りが繁華街であって、池袋は師範学校や立教大学など、学校が置かれた事から文教地区となっていった。

1933年に白木屋と京浜急行電鉄が共同で設立した京浜百貨店が1930年代に菊屋デパートの名で池袋駅に開店。そして東京市電(1943年に東京都電となる)が1939年に池袋駅前に乗り入れ、この頃から交通の結節点として、賑わいを見せるようになる。菊屋は1940年に武蔵野鉄道(現西武鉄道)に買収され、武蔵野食糧を開設。武蔵野デパートを経て1949年に西武百貨店と改称した。また1962年に東横百貨店が東武鉄道に売却され、東武百貨店と改称し、丸物百貨店はパルコになった。

現在池袋と名の付く地区の大半は、一時期西巣鴨町に属していた。西巣鴨橋という橋が東池袋二丁目に現存する。サンシャインシティは巣鴨拘置所の跡地に立てられたものである。

上野

上野(うえの)は、東京都台東区の上野駅を中心とする一帯を指す地域名。行政上の町名は、台東区上野、北上野、東上野、上野公園などからなり、日本最初の公園である上野恩賜公園(上野公園)や、商店街がある繁華街。

町名の上野は、新住居表示で一丁目から七丁目まで存在する。

上野山は、戦国時代には忍岡(しのぶのおか)と呼ばれており、元々江戸においては人口の少ない地域であった。

1603年に江戸幕府が開かれた頃、忍岡には、伊賀国上野を本拠地とする外様大名・藤堂高虎の屋敷が置かれた。

後に徳川将軍家の菩提寺である寛永寺が建立され、門前町が開けた。この頃から、寛永寺付近の一帯を「上野」と呼ぶようになる。これは、藤堂家の所領である上野に地形が似ていたためと言われている。寛永寺には歴代将軍の墓も建てられ、江戸幕府から保護されたので繁栄し、それに伴って門前町の上野も発展した。上野寛永寺は、江戸城から見て陰陽道上の鬼門に当たり、京都の延暦寺(京都から見た場合は北東)に擬えた江戸鎮護の寺でもあった。

明暦の大火後には上野に広小路が設置された。ただし、当時の上野広小路は現在の上野駅付近にあり、現在の広小路は江戸時代には「下谷広小路」と呼ばれていた。

1868年に新政府軍と彰義隊による上野戦争で寛永寺が焼失し、その跡地が上野公園となった。その後、東京市15区6郡制の下で、上野公園とかつての門前町は下谷区に編入される。

1883年の上野駅開業後には、上野駅が東北本線の始発駅となったことから、東京の北の玄関口の役割を担うようになり、街も発展した。1947年に東京都の区が23区に再編されると、下谷区と浅草区が合併し、台東区となるとその一部となり、現在に至っている。

「上野」という地名の由来には諸説が有る。

最有力の説は、藤堂高虎が、当地の地形が本拠地たる伊賀上野(いがうえの)に似ている点から「上野」と命名したという説。

もう一つは、小野篁が上野国(こうずけのくに。現在の群馬県)での任を終えて京へ帰る途中で、当地に館を建てて暫く滞在し、その際地元の人が篁のことを呼んだ「上野殿」が地名になったという説。

恵比寿

恵比寿(えびす)は東京都渋谷区の地名。地下鉄日比谷線、JR山手線、埼京線、湘南新宿ラインの恵比寿駅がある。また西にある、東急東横線の代官山駅も徒歩圏内。訛って、「えべす」とも呼ばれることがある。ヱビスビールと深い関りがあり、ビール広場・ビール坂・ビール橋などの地名が残っている。アメリカ橋も有名。

ローマ字表記は通常はEbisuだが、サッポロホールディングス関係の施設はYebisu(ヱビスビールと同じ)になる。

江戸時代は、下渋谷村・三田村と呼ばれており、渋谷川と三田用水に挟まれる農村で、大名の下屋敷が点在していた。1889年、現在のサッポロビールの前身となる日本麦酒醸造会社がこの地に工場を開設。翌年売り出したビールは、「ヱビスビール」と名づけられた。1894年、ヱビスビールの名にあやかって、兵庫の西宮神社の恵比寿様の分霊を受け、恵比寿神社ができた。1901年には、ビールの運搬のために山手線にゑびす停留所が開設され、1906年から恵比寿駅として旅客扱いを開始。1928年に、渋谷町大字恵比寿通という地名が制定され、幾度かの地名改正を受け、他に隣接する町などを統合して現在の恵比寿という地名に至る。なお工場は1988年に移転され(現千葉工場)、現在は恵比寿ガーデンプレイスとして再開発された。サッポロビール本社もここにある。

現在の恵比寿三丁目が伊達(だて)町、現在の恵比寿四丁目が豊沢(とよさわ)町であった。伊達町は宇和島藩(伊予10万石。仙台藩(伊達藩)の支藩ではなく、新規に国主格大名として取り上げられた)の下屋敷があったことに由来する。現在でも旧地名は町会名として残っており(豊沢町会、伊達町会)、また、恵比寿二丁目交差点を頂上とする坂を「伊達坂」と呼び、恵比寿二丁目交差点の別称は「伊達坂上」である(都営バスの車内放送でも併せて放送される)。現在でも、児童遊園名、マンション名やビル名などに伊達町、豊沢町の名を散見することができる。)なお、三鷹市にある東京無線グループの伊達交通は伊達町で開業したことに由来する。

近年、フランスのクリスタルガラス製造工房「Baccarat」の協力を経て、世界最大級のシャンデリアが展示・公開される。時期はクリスマスシーズンを狙って11月上旬から。開始期間はほぼ同じだが、終了期間は年によってまちまち。長くて2月のバレンタインデーまでとなっている。施設内全体に飾り付ける、イルミネーションもあわせて行われる。

2006年度は、11月3日(金・祝)~翌年1月14日(日)のみ。
クリスマスイベントも開催されている。恵比寿ガーデンプレイス公式HPを参照のこと。

2007年度は11月3日(土・祝)~翌年1月14日(月・祝)
点燈式は初日の17時より。

大手町

大手町駅(おおてまちえき)は、東京都千代田区大手町一丁目6番1号にある東京地下鉄(東京メトロ)と東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。東京メトロ丸ノ内線は「サンケイ前」、都営地下鉄三田線は「読売新聞社前」の駅名併称がある。

当駅は東京の地下鉄の駅で最も多い、5路線が通っている。なお、東京駅との徒歩連絡が可能である。

各路線の駅をつなぎ合わせると、アルファベットの「P」の様な配置になっており、左下から、時計回りに三田線・千代田線・半蔵門線・丸ノ内線・東西線の順に並んでいる。半蔵門線の駅が開業した当時は「日本一の地下鉄駅」として、NHKのニュース番組などでも取り上げられた。

東京地下鉄各線は改札内で連絡しているが、丸ノ内線・半蔵門線と東西線の乗り換え部分は直接の連絡がなく、乗り換える時には一旦改札を出場する方が便利なため、いずれの乗車券でも改札外で乗り換える事が可能になっている(なお、遠回りになるが千代田線ホームを経由すれば改札内での乗り換え可能である)。また、東西線から千代田線への連絡でも改札外で乗り換えが可能である(千代田線から東西線へは不可。但し、一度東西線の改札外乗り換え改札まで行って出場し、再び千代田線入場改札から入場するのは可)。そのため、東西線・丸ノ内線・半蔵門線のりばへの改札口にある自動改札機には、オレンジ色のステッカーが貼付されているものがある。なお、東西線と半蔵門線を乗り換える際に、東西線ホーム中野寄りや半蔵門線ホーム渋谷寄りから乗り換える場合は、千代田線ホーム経由の方が距離が若干短い。

東西線と半蔵門線、三田線と半蔵門線・丸ノ内線の相互間は乗り換えに時間が掛かる。東西線と半蔵門線の場合は九段下駅、三田線と半蔵門線の場合は神保町駅が便利。

東西線ではJR東京駅への乗り換え案内を行っている(他の各路線では行っていない)。逆に、JR東京駅では東西線への案内を駅構内のみで行っている(同駅構内には東西線と丸ノ内線の乗り換え案内があるが、丸ノ内線は東京駅である)。

丸ノ内線のホームは、南隣の東京駅に近すぎない様にという理由で、現在の位置に建設された。なお、同駅間のトンネルの下にも駅施設があるため、東西線ホーム上の改札外通路は丸ノ内線トンネルの部分を掘り下げた構造になっており、また東西線ホームも丸ノ内線トンネルの部分のみ天井が少し低くなっている。

三田線日比谷駅側の地上出入口の一部は、千代田線二重橋前駅の出口と共用している。

2007年3月18日より、IC乗車カード「PASMO」が使用可能である。PASMOとSuicaは当初から相互利用可能であるが、これを利用して千代田線(又は日比谷線)と東西線を経由して、JR常磐線亀有駅・南千住駅以遠(北千住駅接続金町駅・三河島駅の各方面)から中央線東中野駅・高円寺駅以遠(中野駅接続大久保駅・阿佐ケ谷駅の各方面)、或いは総武線下総中山駅・船橋駅、武蔵野線船橋法典駅、京葉線市川塩浜駅・南船橋駅以遠(西船橋駅接続本八幡駅・東船橋駅・市川大野駅・新浦安駅・新習志野駅の各方面)に向かう場合、又はその逆の場合は、全線をJRの路線を利用したものとして運賃が計算されるので注意が必要である。なお、西船橋駅にはJRと東京地下鉄との連絡改札口が設置されている。

東京地下鉄

* 丸ノ内線は相対式ホーム2面2線、その他の路線は島式ホーム1面2線の地下駅である。
* 丸ノ内線ホーム以外は改札口とホームとの間にエレベーターがある。
* トイレは全部で6箇所あるが、多機能トイレは東西線中央改札にしか設置されていない(乳幼児・オストメイト非対応)。なお、2007年11月現在半蔵門線ホーム直上の渋谷方地下3階にあるトイレは改修工事により閉鎖中である。

[編集] のりば
1 ○丸ノ内線 銀座・新宿・荻窪・中野富士見町方面
2 ○丸ノ内線 御茶ノ水・後楽園・池袋方面
3 ○東西線 西船橋・津田沼・東葉勝田台方面
4 ○東西線 飯田橋・高田馬場・中野・三鷹方面
5 ○千代田線 代々木上原・本厚木・唐木田方面
6 ○千代田線 西日暮里・北千住・綾瀬・取手方面
7 ○半蔵門線 九段下・渋谷・中央林間方面
8 ○半蔵門線 押上・久喜・南栗橋方面


お台場

お台場(おだいば)とは、東京都港区台場(東京湾埋立13号地北部)の通称である。現在の住居表示では一丁目から二丁目まである。当地域の人口は、5,194人(2007年9月1日現在、住民基本台帳による。港区調べ)。
また、広義には品川区東八潮、江東区青海を含む13号地全体をお台場と呼ぶこともある。この地域は臨海副都心(りんかいふくとしん)の一部である。

* 嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航して幕府に開国要求を迫る。これに脅威を感じた幕府は、江戸の直接防衛のために伊豆代官の江川太郎左衛門に命じて、洋式の海上砲台を建設させる。工事は急ピッチで進められ、砲台は翌1854年にペリーが2度目の来航をするまでに一部は完成し、品川台場(品海砲台)と呼ばれた。

ペリー艦隊は品川沖まできたが、この砲台のおかげで横浜まで引き返し、そこでペリーが上陸することになった。台場は石垣で囲まれた正方形や五角形の洋式砲台で、海上に第一台場から第七台場が、また品川の御殿山のふもとに御殿山下台場の合計8つの台場が建設された。このうち、現在は台場公園として開放されている第三台場と、他の埠頭などとつながっていない第六台場が残されている。なお「お台場」は「砲台場」が訛ったものだという。つまり、日本各地にある他の台場も「お台場」と呼んで差し支えない。この砲台は、十字砲火に対応しており、敵船を正面から砲撃するだけではなく、側面からも攻撃を加えることで敵船の損傷を激しくするのである。2度目の黒船来襲に対し、幕府はこの品川台場建設を急がせたが、結局この砲台は火を噴くことなく戦い無しの開国となったのである。

* 明治初期、品川台場は陸軍省の管轄におかれる。
* 大正3年(1914年)、品川台場が陸軍省から東京市に払い下げられ、海上の7つの台場は東京市芝区品海砲台となる。
* 昭和3年(1928年)、第三台場が東京市により整備され、台場公園として市民に開放される。
* 昭和14年(1939年)、第四台場が新しく完成した埋立地(品川区天王洲町・現在の品川区東品川)に埋没して消滅する。
* 昭和16年(1941年)、東京港が開港する。
* 昭和22年(1947年)3月15日、芝区・麻布区・赤坂区が合併して港区が成立し、台場地区は東京都港区品海砲台となる。
* 昭和30年(1955年)、品川区と地続きになっていた旧第四台場の土地が、港区より品川区に割譲される。
* 昭和32年(1957年)、8つの台場のうち唯一陸上に造られた御殿山下台場が撤去され、跡地に品川区立台場小学校が開校する。
* 昭和36年(1961年)、東京港の開港に伴い船舶が増加したため、航路を塞ぐ形で浮かぶ第二台場が撤去される。
* 昭和37年(1962年)、第五台場が新しく完成した埋立地(港区品川埠頭・現在の港区港南)に埋没して消滅する。
* 昭和38年(1963年)、第一台場が新しく完成した埋立地(港区品川埠頭・現在の港区港南)に埋没して消滅する。
* 昭和40年(1965年)、第七台場が撤去される。これにより、現存する第三台場と第六台場以外のすべての台場が消滅する。なお、第七台場は最初から未完成のまま海面下に水没した状態で残されていた。
* 昭和40年(1965年)3月1日、台場地区に住居表示が実施され、港区品海砲台(第三・第六台場)が港南五丁目となる。
* 昭和54年(1979年)、東京港の海底を掘削した際の残土により埋立が進められ、13号埋立地が完成する。そのうち北部は幕府が築いた台場にちなんで、お台場と呼ばれた。完成当時、13号埋立地はいずれの区にも属していなかったが、北部は港区、西部は品川区、南部は江東区にそれぞれ帰属された。

東京都は都心の混雑を緩和するため、臨海部の開発を進めた(埋立地の開発としては神戸のポートアイランド、福岡の人工浜・シーサイドももちなどが先行していた)。レインボーブリッジの建設や世界都市博覧会の開催予定により、企業進出が誘致された。(東京臨海副都心を参照のこと)

* 平成7年(1995年)、世界都市博覧会の中止が決定される。これによって企業の進出や移転のキャンセルが相次ぎ、13号地は空き地だらけとなったため発展に暗雲が立ち込めた。また、東京テレポートセンター、東京臨海副都心建設、竹芝地域開発など、この地域を中心に事業を行っていた第三セクターは大幅な赤字となり、事実上破綻した。
* 平成8年(1996年)、臨海副都心開発により新たに港区台場が13号地北部に成立する。これに伴い、第三台場・第六台場が港区港南五丁目から港区台場一丁目に変更される。
* 平成9年(1997年)、フジテレビが新宿区河田町より移転、また同局のTVドラマ「踊る大捜査線」などによりお台場の知名度が上がり、りんかい線の全線開通(2002年)もあって、商業施設のみならず居住施設やランドマークも続々と誕生している。さらに東京都知事の石原慎太郎がカジノ構想を提唱したため、賛否を問わず注目度は一層高まっている。
* 平成16年(2004年)、上海ガニがお台場の海岸に生息していることが確認される。

お台場は昭和時代に潮干狩りのために蜆がたくさん放された。そのため現在お台場付近の海岸は潮干狩りができる隠れたスポットである。お台場付近は港区・江東区・品川区のちょうど境界線にあり場所によって区が異なる。またお台場に程近い東京国際展示場(通称:ビックサイト)とテレコムセンターは江東区にあり船の科学館は品川区に属している。当然フジテレビは港区にある。ゆりかもめは港区からレインボーブリッジを通りお台場に入り港区、江東区に入り豊洲へと続く。(東京港も参照のこと)

御茶ノ水

御茶ノ水駅(おちゃのみずえき)は、東京都千代田区と文京区に跨る東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅。東京地下鉄の駅番号はM-20。

神田川(外堀)南側(千代田区側)にJR東日本の駅が、北側(文京区側)に東京地下鉄の駅がある。そのため、所在地はJR東日本が千代田区神田駿河台、東京地下鉄が文京区湯島である。

JR東日本

島式ホーム2面4線を持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。

外側2線を中央線の快速が、内側2線を中央・総武線の各駅停車がそれぞれ使用する。方向別複々線になっていて乗り換えには便利だが、昼間の多頻度運行時には快速と各駅停車は接続を取らない事が多く、快速のドアが開くと同時に向かい側の各駅停車の列車のドアが閉まるという事も多い。

当駅を境に総武線と中央線の各駅停車の列車が相互直通運転を行う。ただし、中央線が快速運転を行わない早朝と深夜は両線で分離して運転を行う。総武線は当駅で折り返すが、中央線は当駅の水道橋方で快速線から緩行線に転線して東京駅発着で運転する(この際には、快速で使われるオレンジ色帯の電車が使用される)。総武線の上り列車は当駅2番線に到着し、そのまま中央緩行線下り本線に引き上げ、その後3番線に入線して総武線下り列車となる(構造上、東京発着の全列車は総武線が折り返しに使うところは通らない)。この時間帯には、千葉方面から新宿・三鷹方面、その逆の三鷹方面から錦糸町、千葉方面へ行く場合は、共に当駅での乗り換えが必要となる。

御茶ノ水橋と聖橋の間にホームがあり、それぞれの橋の南側に出口がある。なお、駅本屋は御茶ノ水橋側にある。高台の擁壁と神田川の間に駅があるため、ホームの幅が非常に狭い。

JR発足直後に老朽化した駅舎を建て替えるために、新駅舎のデザインを募集するなどの大規模なプロジェクトが行われて、ニコライ堂を模したデザインが選ばれた。しかし、擁壁と神田川に挟まれている事、駅舎がホームより高い位置にあり大変に狭い所にあること、利用者が多いことなど、不利な条件がいくつもあるためか、その後計画は立ち消えとなってしまった。

このような構造上・立地上の問題からバリアフリー対応が十分に行われておらず、車椅子用のリフトはあるがエレベーターとエスカレータが設置されていない。周辺に大学病院などの大規模な病院が数多くあり、通院する高齢者などから苦情が寄せられているため、2002年に周辺の8病院が連名でJR東日本にバリアフリー対応の要請を行っているものの、技術的に困難として進展しておらず、2006年12月月下旬からエレベーターとエスカレータの設置を求める署名運動が行われている。

トイレは御茶ノ水橋口と聖橋口の両改札口内にあるが、共に多機能トイレはない。

JR線の北を神田川が流れる。丸ノ内線の駅は神田川の北側にあり、御茶ノ水橋でつながる。聖橋は東、御茶ノ水橋は西に架かる。駅周辺は明治・日本・順天堂・東京医科歯科の各大学などがあり、『日本のカルチエ・ラタン』とも呼ばれる学生街として知られている。また、楽器店やスポーツ用品店、歴史ある有名病院も数多い。

* 新御茶ノ水駅(東京地下鉄千代田線)
* 小川町駅(都営地下鉄新宿線)
* 淡路町駅(東京地下鉄丸ノ内線)
* 東京電機大学(本部・工学部)
* 駿河台大学(お茶の水キャンパス・大学院法務研究科)
* 駿台予備学校
* 日本出版販売本社
* ニコライ堂(正式名は「東京復活大聖堂」。日本ハリストス正教会の府主教座・本部)
* 総評会館(日本労働組合総連合会本部)
* 文化学院
* アテネフランセ
* 明治大学(本部・駿河台キャンパス)
* 日本大学(歯学部・理工学部・大学院法務研究科)
o 駿河台日本大学病院
o 日本大学総合健診センター
o 日本大学歯学部付属歯科病院
o 日本大学カザルスホール
* 中央大学駿河台記念館
* 山の上ホテル
* 東京YWCA会館
o 東京YWCA専門学校
* 井上眼科病院
o 井上眼科病院付属駿河台診療所
o 井上眼科病院付属お茶の水・眼科クリニック
* 名倉病院(建て替え中)
* 神尾記念病院
* 杏雲堂病院
* 社団法人東京都教職員互助会三楽病院
o 三楽病院付属生活習慣病クリニック
* 東京都水道局水道歴史館
* 浜田病院
* 神田(神保町)古書店街
* 三省堂書店神田本店
* 神保町駅(東京地下鉄半蔵門線、都営地下鉄三田線・新宿線)
* 明大通り
* 外堀通り
* 国道17号
* マロニエ通り
* 四谷大塚御茶ノ水校舎
* デジタルハリウッド本社・東京本校

2007年11月11日

表参道 (原宿)

2006年、年末年始のイルミネーションが復活。表参道akarium(アカリウム)という名称で、和のテイストを入れた斬新な灯りの塔60基が 2006年12月5日から翌年1月8日までの期間、歩道沿いに設置されたが、ビルの灯りや車のライトに紛れて、地味で目立たなかったという声が多く、新たな試みが期待される。

都道413号線のうち、表参道交差点から根津美術館方面に向かう区間は「フロムファースト通り(みゆき通り)」と呼称されることがある。幅員15mと比較的狭小であるが、こちらも高級ブランド店の多い通りである。

施設名: 表参道ヒルズ
(おもてさんどうヒルズ )
住所: 〒150-0001
東京都渋谷区神宮前4丁目12番10号
営業時間: ショッピング・サービス/11:00~21:00、(日)~20:00 レストラン/~24:00、(日)~23:00 カフェ/~23:00、(日)~22:00
お休み: 無休(年4日休館予定)
問い合わせ先: 総合インフォメーション
03-3497-0310
アクセス: 地下鉄銀座線・千代田線・半蔵門線地下鉄「表参道駅」A2出口から徒歩2分、または地下鉄千代田線「明治神宮前駅」5番出口から徒歩3分、またはJR山手線「原宿駅」明治神宮口から徒歩7分
行き方を調べる
概要: 表参道のランドマークとして2006年2月にオープンした商業施設と住宅、駐車場からなる複合施設。建物本体の高さも抑えられることにより、表参道のケヤキ並木と調和し、屋上の緑化部分は明治神宮からつながる緑の景観を創り出している。 多くの人々に親しまれてきた旧同潤会青山アパートの外壁の一部が再生されているほか、館内には表参道の坂とほぼ同じ勾配を持つ長さ約700mの“スパイラルスロープ”(第二の表参道)や、吹抜け大階段、イベントスペースなどが配置されている。

霞が関

霞ヶ関とも書く。霞ヶ関ビルディングなどには、特別な郵便番号の設定がある。
奥州街道の関所として中世から東国の名所として広く知られており、1364年(貞治3年)の新拾遺和歌集にも「徒らに名をのみとめてあづま路の霞の関も春ぞくれぬる」として詠まれているが、これが現在の千代田区霞が関にあたるかどうかについては具体的には新宿区霞岳町、狭山市下広瀬、多摩市関戸などが候補として挙がっている。
霞ヶ関の煉瓦街(1930年代)霞ヶ関の煉瓦街(1930年代)
江戸時代までは地域であった。
語は、代名詞としても使われている。
中でも最も古くから霞が関にある「外務省」の代名詞として、「官邸外交」に対する「霞が関外交」のように用いられることもある。

* 中央合同庁舎1号館…農林水産省、林野庁、水産庁 * 中央合同庁舎5号館…厚生労働省、環境省、内閣府(防災担当) * 中央合同庁舎6号館…法務省、公正取引委員会、公安調査庁、最高検察庁、東京高等検察庁、東京地方検察庁、東京区検察庁、東京家庭裁判所、東京簡易裁判所(民事) o 赤レンガ棟…法務省旧本館(重要文化財) * 裁判所合同庁舎…東京高等裁判所、知的財産高等裁判所、東京地方裁判所、東京簡易裁判所(刑事)、第一中小企業庁、資源エネルギー庁 * 日本郵政本社(旧日本郵政公社本社、旧郵政省)
霞が関の最寄として機能している駅を以下に挙げる。

駅ホームは逆向きの「コ」の字に配置されており、北から反時計回りに丸ノ内線、日比谷線、千代田線の順である。

丸ノ内線は島式・相対式(渋谷駅山手線ホームタイプ)の組み合わせの2面2線の地下駅である。改札は地下1階、ホームは地下2階にある。エレベータが地下1階~地下2階を結ぶ。なお丸ノ内線の駅は開業当時は島式1面2線であったが、1973年に現在の形になった。

日比谷線は島式ホーム1面2線の地下駅である。改札は地下1階、ホームは地下3階にある。

千代田線は島式ホーム1面2線の地下駅である。改札は地下2階、ホームは地下1階にある。つまりホームから地上に出るには一旦下の階に降りる必要がある(ホームから上階への階段はない)。建設地点には旧海軍の地下防空壕跡があったためこのうちの約半分を取り壊して建設された。(東京地下鉄道千代田線建設史による)工事の支障とならなかった部分は存置されていると考えられるが、前出の建設史に記載されている図面を見る限り独立していると考えられる。エレベータが地下1階~地下2階を結ぶ。

丸ノ内線と千代田線の乗り換えには日比谷線ホームを経由する必要がある。東京メトロによれば5分かかるということになっている(丸ノ内線、千代田線を直接結ぶ改札内通路はない)。

千代田線の国会議事堂前駅寄りに有楽町線桜田門駅につながる連絡線(単線)があり、主に回送列車が使用する。営業列車では「千代田ワープ号」などのイベント列車が走行している。

当駅(次駅の日比谷駅)~北千住駅間は日比谷線経由と千代田線経由があるが、千代田線経由のほうが早く到着する。


2007年11月14日

神田

要約結果(1074文字) 保存
神田(かんだ)は、東京都千代田区北東部の地区の地名である。神田を冠称する町名が多く見られるのは、町名変更の名残である。

1947年に神田区が麹町区と合併して千代田区が発足する際、神田区内の町名には「神田」を冠称する町名変更がなされた。
神田区の名前が消滅することを惜しむ住民の声に行政が応えたとも、麹町区と神田区に同じ町名(平河町)が存在するための便宜上の措置だったとも言われる。
→ 日本橋・麻布地区
「神田」を冠称する現町名
神田相生町
神田淡路町
神田和泉町
神田岩本町
神田小川町
神田鍛冶町
神田北乗物町
神田紺屋町
神田佐久間河岸
神田佐久間町
神田神保町
神田須田町
神田駿河台
神田多町
神田司町
神田富山町
神田錦町
神田西福田町
神田練塀町
神田花岡町
神田東紺屋町
神田東松下町
神田平河町
神田松永町
神田美倉町
神田美土代町

「神田」を冠称しない現町名
内神田
外神田
西神田
東神田
岩本町
鍛冶町
猿楽町
一ツ橋
三崎町


上記のうち、「神田」を冠称しない町域ではすべて住居表示が実施されているのに対し、「神田」を冠称する町域においては住居表示が実施されていない。
たびに神田を冠称しない町名に変更がなされており(例、神田末広町・神田金沢町・神田旅籠町三丁目の各全域を外神田三丁目に変更)、神田岩本町・神田鍛冶町の町域のうち、町域が岩本町・鍛冶町である。一丁目が存在しないのは、町名変更により一丁目のみ消滅したからである。
2007年8月7日、三崎町と猿楽町に「神田」を冠する町名に変更することが分かった。

町名の読み方は主に、起立や町名町域変更のたびに「東京市公報」によって告示された読み方が使われている。
地下鉄においては、町名が駅名に採用されている。

江戸時代後期には、幕府が武芸修練所として小川町に設置した講武所や、北辰一刀流剣術の玄武館などの剣術道場があった。
伝馬町牢屋敷も安政の大獄では人物が処刑された。
町名には一律「神田」が冠称される。

私立大学
明治大学
中央大学
日本大学
東京電機大学
専修大学
駿河台大学
共立女子大学


専門学校
日本カウンセラー学院
神田外語学院


予備校
駿台予備学校
Z会東大マスターコース
博物館
交通博物館(神田須田町)*2006年(平成18年)5月14日閉館 病院
日本大学病院
日大歯科病院
ガン検診センター

2007年11月15日

銀座

銀座(ぎんざ)は、繁華街の一つ。繁華街の代名詞的存在となっており、高級商店街、繁華街としては世界的にもその名が知られている。「洗練された大人の街」として活況を呈し、日本でも繁華街を形成している。
北側より銀座一丁目から銀座八丁目まで存在する。江戸城外堀を埋め立てた東京高速道路の1・2階部分は商店街となっているが、行政区画が部分もあり、俗に銀座九丁目・銀座西◎丁目地先などと呼ばれる。
北東から南西にかけて町を貫く銀座通り(中央通り)を中心にグリッド状の街区が構成されており、平行して外堀通りと昭和通りが、北西から東南にかけて晴海通りといった大通りが町を貫いている。
東を三十間堀川、西を江戸城外堀、南を汐留川、北を京橋川に島であった。
昭和通りの南東に位置する地域は、地域だったが、埋め立てにより銀座と地続きとなったことから銀座東と改名し、銀座に統合された。
首都高速都心環状線を挟んだ地域も含めて東銀座駅を最寄りとする一帯は、一般的に東銀座と呼ばれている。数寄屋橋を中心とする地域はかつて銀座西という町名だったが、地下鉄丸ノ内線の西銀座駅(現在の銀座駅)があったりしたことから町名が銀座となった今でも広く西銀座と呼ばれている(例:西銀座デパート・西銀座チャンスセンター・西銀座通り)。

銀座に転機が訪れたのは、明治維新後の1869年と1872年に起こった2度の大火だった。
銀座大火は兵部省添屋敷から出火し、銀座一円が焼失するという大規模なものであった。
整理後も払下げ価格が高価なうえに支払い条件が厳しく、住民たちは銀座を後にせざるを得なかった。かわりに、地区で成功を収め、煉瓦街に進出してきた商人たちが銀座の表通りで商売を始めた。出発した銀座には特色があった。
京橋区という下町にありながら、顧客は主に手に住む中産階級、ホワイトカラーの人々だったということである。下町の人々の盛り場は、浅草・上野だった。維新後に東京へ出てきた人々は、同じく明治に入って急速な発展を遂げた銀座に集うようになり、こうした地方出身者と中産階級の増加に伴って、銀座も発展をしていった。
J.フロント リテイリング
中越パルプ工業
王子製紙
紀文食品
資生堂
日産自動車
三城
リコー
ヤマトホールディングス
大和自動車交通
電源開発
東映
東京テアトル
不二家
博品館
天賞堂
山野楽器
東京海上日動あんしん生命保険
時事通信社
ぎょうせい
実業之日本社
大日本図書
マガジンハウス
読売広告社
駅前探険倶楽部
リクルート

食においても、銀座は西洋の味覚を紹介する場となった。
1895年には「煉瓦亭」が開業し、カツレツなどの洋食を日本全国へ波及させた。銀座で調剤薬局を営んでいた資生堂は1902年、店舗内に「ソーダ・ファウンテン」(現・資生堂パーラー)を併設し、ソーダ水やアイスクリームを売りだした。他にも、1897年に開業した輸入果物の販売やフルーツパーラーを開業するなど、銀座には様々な食文化が流れ込んだ。カフェを模した「カフェープランタン」が開店し、作家や画家などの文化人の社交場となった。
その後も「カフェーパウリスタ」や「カフェーライオン」などが続々と開店し、学生なども出入するようになり、議論が盛んに行われた。流行とともに大衆化・俗化し、カフェーは全盛を極めることとなった。銀座は高級料理店や料亭、高級クラブなどが立地する街として認識されるようになっていった。
1号店が銀座に開店した。進出し、その後も「サンマルクカフェ」や「ル・カフェ・ドトール」の1号店の開店が相次ぎ、銀座はカフェの激戦地となったほか、カフェブームを全国へと広げる舞台にもなった。

汐留

汐留(しおどめ)とは、地名・旧町名。全域が港区東新橋に該当する。東新橋一丁目と二丁目がある。

今日では、新橋駅と間から分岐していた貨物線の汐留駅跡地で土地区画整理事業を実施して誕生した巨大複合都市“汐留シオサイト(しおどめsiosite)”を指す。
その結果、汐留は武家屋敷街となった。江戸城外堀に干満が及ばないように堰があったことからこの名前がついたらしい。その後、新橋駅がこの汐留に建設され、東京の玄関として華やかで活気のある街となった。汐留は、貨物専用駅となり、集まる貨物ターミナルとして栄えることになる。
跡地と、地権者からなる周辺31ヘクタールの広大な都市基盤整備とプロジェクトにより、1995年(平成7年)から再開発がはじまった。
東側には西側は霞ヶ関の官庁街があり、銀座、築地、臨海副都心にもビジネスロケーションといえる。汐留シオサイトに汐留シティセンターや電通ビル、日テレタワーなどはヒートアイランド現象の要因とも指摘されている。
話すらある。

東新橋一丁目・海岸一丁目

日本テレビタワー
汐留メディアタワー
電通本社ビル松下電工東京本社ビル
旧新橋停車場(鉄道開業時の新橋停車場の建物などを復元) 日本通運本社ビル
汐留H街区超高層棟
アクティ汐留(賃貸マンション) 3~44階 ラ・トゥール汐留(賃貸マンション) 45~56階 スカイグランデ汐留(分譲マンション) 汐留芝離宮ビル
T&D保険グループ 5〜20階
ポケモンセンタートウキョー2階
東急不動産<仮称> 汐留I-2プロジェクト(建設中) イタリア公園(港区立公園) 汐留シティセンター
全日本空輸本社
富士通本社
三井化学本社
日本テレビタワー
日本テレビ放送網本社
汐留タワー
資生堂汐留オフィス 1~22階
ホテル ロイヤルパーク汐留タワー 24~38階
電通本社ビル
電通東京本社
カレッタ汐留
電通四季劇場[海] 汐留メディアタワー
共同通信社本社
パークホテル東京 25〜34階
トッパンフォームズ本社ビル
東京汐留ビルディング
ソフトバンク本社
ソフトバンクテレコム本社
ソフトバンクモバイル本社
コンラッド東京 28~37階(ホテル) 汐留住友ビル
リクルートグループなど 首都高速道路都心環状線

2007年11月18日

江古田

中野区の北部に位置する。東部は新宿区西落合に接する。北部・北東部は江古田川を境に中野区江原町・練馬区豊玉北・豊玉中に接する。北部は道路を境に豊玉南にも接する。西部は中野区丸山に接する。南部は新青梅街道を境に中野区松が丘・沼袋に接する。
江古田は室町時代に初出が確認されているが、地名の由来および当時の読み方については諸説あり、はっきりしていない。
1477年には太田道灌と豊島一族がこの地で戦い、江古田原沼袋の戦いと呼ばれている。
江古田は多摩郡東端の村であったが、明治維新後の1889年(明治22年)、近隣の6村と合併し野方村となった(この間、所属郡は東多摩郡→豊多摩郡と変遷)。
その大字となる。地名としての江古田の範囲は、住居表示法施行で決まったものである。
この直前では、江原町、丸山、沼袋二丁目および四丁目を加えた範囲が江古田であり、江古田一丁目から四丁目まで存在した。現在中野区では江古田地域の範囲を江古田一丁目から三丁目・江原町全域・松が丘全域とし、江古田四丁目は沼袋地域に組み入れられている。

江古田三丁目の北西部一帯は、結核を罹った患者の隔離病棟を備えた施設であった。
現在跡地は江古田の森公園といった福祉保健施設・公務員宿舎になっている。いが、都営大江戸線(落合南長崎駅・新江古田駅)、西武池袋線(東長崎駅・江古田駅)および西武新宿線(新井薬師前駅・沼袋駅)の各駅が徒歩10~15分の範囲にある。
乗合バスの系統および運行本数も充実しており、これを利用する者も多い。江古田駅が存在し、駅周辺一帯も江古田と呼ばれることが多い。
江古田駅は練馬区栄町に中野区の江古田からは離れている。練馬区栄町旭丘が、住居表示法施行まで「江古田(町)」であったことに由来する。
諸説あるが、不明である。
中野区の地名に合わせたものである。

大学が多数あり、学生が多い町です。
ですので、駅前などは学生が騒ぐことが多く、
治安はあまりよくないとも言えます。

ですが、池袋まで3駅なので、最高の立地ですね!

白金

白金台
明治学院大学
クイーンズ伊勢丹
三光坂
大久保彦左衛門
蜀江坂
明治坂
北里大学
日吉坂
白金台駅
白金高輪駅
高輪台駅(駅所在地は元々白金猿町)

新橋

新橋は繁華街、ビジネス街です。

町名としての新橋が登場するのは1932年(昭和7年)10月1日。

新橋一丁目 = 二葉町、芝口一丁目、新幸町のほぼ全域、汐留町一丁目の一部、官有の無番地の一部 新橋二丁目 = 烏森町、日蔭町一丁目、芝口二丁目、官有の無番地の一部 新橋三丁目 = 愛宕下町一丁目、日蔭町二丁目、芝口三丁目、官有の無番地の一部 新橋四丁目 = 愛宕下町二丁目、源助町、官有の無番地の一部 新橋五丁目 = 愛宕下町三丁目、露月町、官有の無番地の一部 新橋六丁目 = 柴井町、愛宕下町四丁目の一部、官有の無番地の一部 新橋七丁目 = 愛宕下町四丁目の一部、宇田川町の一部、官有の無番地の一部 戦後は闇市が発展し、一時期、華僑·王長徳の勢力下にあった。
1947年(昭和22年)3月15日に、芝区は隣接する2区(麻布区·赤坂区)と合併し、港区が発足。 1965年(昭和40年)7月1日に住居表示実施による町名変更·地番整理により、芝新橋のうち、(第一京浜(東海道、国道15号)より東の区域を東新橋に編入(ただし芝新橋一丁目の該当箇所は除く)、芝田村町の日比谷通りより東の区域を編入し、丁目境界を一部変更して、現町域·新橋一丁目~新橋六丁目となった。

おいしい飲み屋がいっぱいありますね。
駅前のSLが目玉です。

代官山

代官山町(だいかんやまちょう)は、東京都渋谷区の地名。単独で住居表示を行っている。東急東横線の代官山駅があり、単に代官山(だいかんやま)と呼ばれることが多い。地理的には、旧山手通りと駒沢通りの交差点である鎗ヶ崎に近い。
高級ブティックや高級菓子店が多い点では、青山や表参道と共通しているが、東京の都心から外れており、雑多で猥雑な商店街や飲食店が少ないため、落ち着いた雰囲気であり、隠れ家的な街となっている。

また、閑静な住宅街でもあり、住みたい街のアンケートでしばしば上位にランクインする。
建築家の槇文彦によるヒルサイドテラスは、モダニズム建築におけるまちづくりの最高例とされ、槇のプリツカー賞受賞理由の一つとされている。また、駅前には代官山アドレスがあり、住居棟であるザ・タワーは代官山のランドマークとしてそびえ立つ。ここはかつての旧同潤会 渋谷アパートメント跡地に建設されたものである。
最近の代官山はマンションの建設ラッシュ。
緑がなくなってしまうのはとても残念です。目切り坂を下ったところにあった「原っぱ」も一大商業施設ができるとか。せっかく代官山にもこういった自然が残っていると紹介してきたのにビルが建ってしまいます。残るのは西郷山公園、菅刈公園の周辺の緑はみんなで大切に守りたいものです。八幡通りや旧山手通りを散策すると、いままで気づかなかった高層マンションの姿が目に飛び込んできます。

☆おすすめのお店

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